私の電話はあいふぉーん

SOU・SOU 喫茶

iPhoneに浮かれる僕を戒める私。最近、自分が固着しているようなのでまとめておこう。

ところが、「ほぼ日」社内では
こつこつとユーザーが増えていき、
いつのまにか14名ほどになったんです。
いったいそれは、なぜ?
そして、どんなふうに使ってる?
そういったことを座談会形式で訊いてみました。

via: ほぼ日刊イトイ新聞 – My Phone is iPhone.

2009年3月末現在の携帯電話の契約数は約1億700万台(TCA事業者別契約数2009年03月末現在)。ソフトバンクは2,000万ちょっと。累計台数とシェアを表にした。

キャリア 累計台数 シェア
ドコモ 54,600,700 50.7%
au 30,842,800 28.6%
ソフトバンク 20,632,900 19.1%

日本でのiPhone台数は非公開。100万台を突破していないのではとか(“ゲーム機”「iPhone」が 市場を席巻する日(前編): 日経ビジネスオンラインによると50万台程度らしい)。全世界での販売台数は、2008年に1,300万台を突破して世界市場の1%を占める。

体感的な勢いと数字の事実は、感覚的にかけ離れている。日本のキャリアはハードの販売が目的だから、国内に「いるのかどうかわからない」程度のユーザへサービスを提供できない、と思う。全世界でも1%。ビジネスにならないと鼻であしらう。「携帯電話」のビジネスだから。

iPhoneは携帯電話か否か。僕は否のほう。App Storeでソフトウェアを探し、インストールして、情報の一元化とワンストップサービスをすすめている。「調べられるものをいちいち覚える必要などない」ものはiPhoneにまかせ、検索する(しなければならない)事象は何かを考える。その時間を増やしている。非効率的な考想のために効率的な行動を選択する。効率の精度を向上させ、非効率の深度をあげる。問いをつくることに知力と体力を注ぐ。今はPhoneが答えを探してくれる。つまり、知をインプット、愚考をアウトプットするインターフェースがiPhoneへ移行しつつある。PCのインターフェースを求めていない。

5年度どうなっているだろう。PCの役割は「創造」と「作業」に限定される。映像やWebサービスの開発、プログラミング、そういった「創造」側にいる人たちが使うマストアイテム。小説は創造だけど、PCを使わなくてもいい。携帯電話小説は携帯電話から入力すればOK。「ポメラ」でもOK(字数は制限される)。PC(的UI)を使わずに創造するジャンルが増えてくる、と僕は考察する。それと、事務やちょっとした文章作成など「作業」をするために使われる。でも、事務もシンクライアントへ移行すればいい。ローカルで演算させない。サーバ側で充分だ。年賀状なんてソフトを販売している会社がオンラインサービスを提供すればローカルで作業しない。PCはいらない。たしか携帯電話から年賀状を作成できますよね?

消費というか、サービスを受ける人がPCを使うシーンは消えてゆく、と考える。OS3.0がリリースされれば、PCを使うシーンはまた一つ消える。OS3.0によって、キーボードを接続できる。OS3.0は以下6つの新機能を提供して、ライフスタイルを提案する。「創造」側の人たちのアイデア。

  1. アプリ内での決済
  2. Bluetoothによるペアリング不要のP2P接続
  3. アプリへのプッシュ通知
  4. マップのアプリ内利用
  5. 周辺機器との通信、制御
  6. iPhone/iPod touch内の音楽ライブラリーアクセス

iPhoneを使う側(サービスを受ける側)の新機能は以下7つ。

  1. カット、コピー、ペースト機能
  2. Spotlight
  3. MMSのサポート
  4. BluetoothのA2DPサポート
  5. 多くの標準アプリでランドスケープモード対応
  6. カレンダーのCalDAV対応
  7. メモのiTunesシンクロ

7つの新機能が、PCを起動させる理由をまた一つ消し去る。

たぶん、iPhoneなら年賀状(やけにこだわるなぁ)をカンタンに作成できるはず。タッチパネルに手書きで書いた絵や文字をサーバへ送信し、連絡帳から送りたい人を選択すれば、オンラインサービスが年賀状を作成して「手書き風年賀状」を郵送する、と思う。

自分が話した内容を文章に変換してメール送信するアプリもリリースされたようだし、「発想」がスタイルを変える。携帯電話だと固着すれば、不便だし、宝の持ち腐れだろう。

便利になること、新しいことに拒否感を示す。それは、自分が使いこなせない(あるいはできない)理由を吐露しているにすぎない。「Do」を「Can」にすり替えている。僕が車を拒否する論理と同じ。だから、「iPhoneの利便性と革新性」を受け入れて、「車の利便性」を拒否する論理は自己言及の矛盾だ、と僕は認識していなければならない。この認識を忘れると、自分の都合のよいように「便利」と「新しい」を解釈して、それ以外を排除してしまう。排除は「技術」にとどまらず、「思想」にまで影響を与える。排除は「理解」の強要を他へせまる。無意識に。

だから、iPhoneに浮かれる僕はもっとクールにiPhoneの革新性を分析して他へ説明しなければ。排除してはいけない。使ってない人の方が圧倒的多数なんだ。理解してもらえなくてあたりまえなんだ。それを肝に銘じないと。