uncategorizable something

芝桜?

さまざまな動物の分類を吟味すると、それぞれの大きな群のうちに、多彩ではあるが何となくわけのわからぬ動物種を含む一群がたいていは設けられており、分類学者は一般にこうした群を「屑カゴ」ないし「ゴミ溜」と呼ぶ。「整理学」という書物を参照すると、整理の要諦は、「未整理」という箱を必ず設けることだ、と書いてある。分類が自然に存在する動物群をある一定の見方で整理するものである以上、どのような仕方で自然から群を切り取ったとしても、そこに「ゴミ溜」が残るのは止むを得ず、あるいはむしろ自然なのである。それは、ある特定の見方をとる、ということの当然の帰結、といったほうがよいかもしれない。

『ヒトの見方』 養老 孟司 P.284-285

Mail Boxを「年-月」というディレクトリで管理している。今ならどのようなメールであれ、「2009」のディレクトリにサブディレクトリ「200904」を作成してしまい込む。だけど、ときおり「uncategorizable」を作りたくなる。衝動をおさえる。Mail Boxならなんとかなる。

ファイルサーバのディレクトリはどうだろう? たいへん。なるべく日付で分類する。けど、クライアントごとのファイルへアクセスしづらい。ならば、まず「クライアント」と分類してから「日付」へと整理する。そうすれば、「共通」はどうなるのか?

ファイルサーバの分類は、自分の頭の限界を認識できる。「何をどう分けるのか」というルールを策定しなければならない。さらに、ルールを策定できても「ラベル」の問題が残る。結局、自分が知り得る言語内でしか「ラベル」を付けられない。僕はファイルサーバの運用に関して、3つのルールを設定している。

  • シンプルなディレクトリ構成
  • シンプルなファイル名
  • シンプルな時間軸

昔はもう少し厳しく設定していたけど、HDDの容量が120GBを超えたあたりから「何を残すか」と考えなくなった。ファイルをいちいち削除するより放置しておくほうが得策だ。むしろ、目的のファイルへアクセスしたいならどう検索すればよいか、へ重点を置いた。検索精度の向上。検索のインターフェースと技術の改善、ソフトウェアの選択など。Spotlightがほぼ問題を解決してくれそうな気配。

Mail Boxやファイルサーバの分類はモノローグだからそれほど難しくない。ところが、ウェブサイトの「分類」を考えるとカオスがやってくる。ダイアローグだから。

ウェブサイトを制作している時、「分類」に時間をかけている。サイト運営者の分類とユーザの見方は一致しない。運営者が専門家であればあるほど不一致の確率は高くなる(傾向にあると推察する)。「分類」は構造の設計と連関する。優れたサイトは、分類と構造が緻密に細工されている(あえて”優れたサイト”の定義をさけるけど)。ユーザは画面内の視認できる要素(アイコン・文字・色など)から一瞬で判断してボタンを押し次のページへ行く。意識しない。ましてや「分類」や「位置」など考えない。

ユーザは無意識でボタンを押す。それと並列してユーザは視覚と認識の不一致があれば「違和感」を抱く。違和感は混乱を招き、「位置」を確認する。検索は「分類」と「位置」の架け橋となる。

オントロジー、タクソノミー、フォークソノミは相互排他的なものではない。企業ウェブサイトのような多くの利用背景においては、オントロジーやタクソノミーによる公式な構造を定義することに投資するだけの値打ちがある。それ以外の、たとえばブロゴスフィアのような環境では、フォークソノミーによる非公式なセレンディピティがあれば、何もないよりはありがたいのは間違いない。そしてまた、イントラネットや知識ネットワークなどの場合には、両方の要素を組み合わせたハイブリッドなメタデータ環境を作るのが理想的だろう。

“アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅” (ピーター モービル) P.184

分類は構造と連関していると述べた。分類と構造が緻密に細工されたサイトは、高度なfindabilityを備えている。高度なfindabilityは充分な情報をもたらし、僕の意志決定に大きな影響を与える。

「分類」において僕が着目している事象は何か。それは、”uncategorizable something”を認識できるかどうか。何も置いていないデスクトップにファイルをひとつ置く。temporary。それが、僕のuncategorizable somethingだ。時の経過とともにtemporaryは保留へ変わる。それがいつ分類されるのか、そして何が僕に分類させるのか、その認知プロセスを自覚したいと切望する。

最後に。ここの「ユーザ」は分類されるのか、という前提を欠落して書いたなと自分の頭の悪さにあきれかえる。