馬鹿の詞と使途

皇子山球場の桜

仕事の上でなにか思いついても、近頃は自分のアイデアかどうか、自信が持てない。人に聞いたか、読んだかしたのだが、そのこと自体を忘れているのではなかろうか。いったん疑い出すと、そうに違いないような気もする。自分の意見を疑わずに持っている人を見ると、うらやましい。私の意見は、自分の意見か、他人の意見か。そこがどうもはっきりない。一応自分のものだと仮定するが、きちんと調べてみると、どこかで読んだものだとわかるかもしれない。

あまり本を読むと、馬鹿になるという話は、何度か読んだ。しかし、読むというのは、一種の中毒だから、どうにもならない。もう完全に馬鹿になったと思う。馬鹿になってしまえば、こっちのものである。あとの始末は、利口な人に、考えてもらうことにしようと思う。

“脳の中の過程―解剖の眼” 哲学文庫 養老孟司 P.234

バカではありません。馬鹿です。誤植ではありませんので念のため。バカの前の馬鹿を読まずにバカの後のバカを談じるのもあり。バカの前の馬鹿を読んで、バカの後のバカの見方を変えるもアリ。

僕は「バカ」の前の馬鹿を賞賛。というか、バカ: before Christ/ante Domineとでは論考が異なる。

どっちでもいいけど。とにかく、「剽窃」と「自分」を認識してかように書ける先生は素敵だ、と剽窃しかない大馬鹿な僕は羨望する。