「シンクセルさんは、”まとめる”のが苦手そうだね」
「苦手ですね。それに嫌いです」
「やっぱり。なんとなくそんな気がした。どうして?」
「”まとめる”こと自体が目的になるからでしょう」
「なるほど。だけど、相手がいる場合、まとめてもらうと筋道を立ててもらったようでありがたいけど」
「わかります。そうなると、まとめの定義でしょうね」
「定義か…..」
「”まとめる”と、まとめられたことで安堵する。ことわざは認識するよりも実践に価値を持つ、と僕は考えます。それと似ているかもしれません」
まとめるのは苦手、まとめが嫌い。まとめに腐心して、まとめあがったとき、「何かをした」と錯覚して安心する。巧言は言葉を認識させるための道具。それ自体に意味を持たない。実践が巧言に意味を結合させる。身体が意味を咀嚼しようするから、「腑に落ちない」のであって、”まとめ”る能力を錯覚している人は、そもそも「腑」の概念を持っていない。
- 会話を文章化できる
- 会話をわかりやすく伝えられる
- 会話を集約できる
そんなものを「まとめる力がある」と評価するなら、それこそ僕は腑に落ちない。そんなものは「まとめる」じゃない。他者はその能力を求めていない。にもかかわらず、この能力を評価している人が、他人を「まとめられない」と嘲り笑う。
じゃぁ、反論しよう。ホウレンソウを精確にできても、重宝されない人はいる。会話を整理整頓できる力を充分に発揮しても、歓迎されない人はいる。なぜだろう?
その人を観察していると気づく。「何を伝えなくてよいのか」という視点をどこかに格納してしまったらしい。「伝」という意味を黙考していない。そもそも伝わらないんだ。だから絶望するし、伝えたいと切望する。
- 「何を伝えなくてよいのか?」
- 「何を知る必要がないのか?」
- 「何を判断させなければならないのか?」
物語を完成させている人が物語を存知していない人に語るとき、完璧に語る。語ろうとする意識は、”あたりまえ”を葬り去る。それは、眼前の人が「まったく何も知らない」という事実。その事実からスタートしなければならないのに、語り手はいきなりゴールを描く。
完璧に語る意識の中に潜む脅威。「知っている自分を表顕したい」という欲。欲は、伝わらないという絶望を隠蔽し、伝えるという切望も封殺する。
削る勇気。削るには、「知っている自分」の欲より、「伝える自分」の苦と対峙しなければならない。伝の意味との出会いが待っている。
一般に評せられる「まとめる」人は、エレベータースピーチができない。議論が拡散していく、時に何を言っているのかわからない人が、抱擁される。なぜだろう?
僕は、まとめられた言葉に無関心だ。多弁で論理的であっても、判断に必要のない単語が並んでいるなら拒否する。それよりも、身体に突き刺さる一言に震える。眼前の人が、震える一言を発話してくれるなら、どれだけまとめられていなくても、ずっと待ち続ける。待つんだ。待つ自分と対決する。
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アップグレード作業と携帯電話からのコメント入力を確認。日本語の表示、問題なし。