No Complexity, No Simplicity.

僕は名刺をよくとっかえひっかえする。自分で作った拙い名刺の上、交換する機会はあまりないけど、開業して5年間に4回変えた。今は、英単語を書き込むシート(左側にリングを通す穴があいている)に印刷している。表は「名前」だけ。屋号も書いていない。屋号もそろそろ変えたい、というか、もう必要ないなと感じている。

名刺の裏に刻んでいる言葉。「No Complexity, No Simplicity.」

有名な某キャッチからいただいた。知覚できる事象は単純だけど、認識できない複雑や複雑にしたがる人間、単純である現象とか。複雑と単純が融合する矛盾なんて意味をこめて刻んだ。

ビスポークと呼ばれるオーダーメイドの靴がある。「ビスポーク 山口千尋」とGoogleで検索すればいい。山口千尋氏は茂木健一郎先生に尋ねる。靴を履いている時と裸足の時、どちらが快適かと。もちろん先生の答は裸足。違う。靴を履いている時だ。目から鱗の先生。その瞬間、先生の脳裏に映像が浮かぶ。ヨーロッパのホームパーティの一コマ。

「裸足で、かかとの部分を誰かに両手でやさしく包んでもらっているところを想像してください。本格的なビスポークの靴は、それくらい快適なのです」

“脳はもっとあそんでくれる (中公新書ラクレ)” (茂木 健一郎) P.66

その対価は? 驚くかどうか。僕は、最近、高いなや安いなと感じないよう訓練している。それもあってか息をのむことはなかった。それよりどうしてその対価かを記憶するよう意識している。食料品や日用品でも同じ。

今日、F先生とミーティングで話していて、ふとこれが頭によぎった。F先生と僕は価値についてよりそえるから苦労しない。仮に近似値を合意できなくても、気が置けない(誤用でないほうの意味)先生だから、かえってそれが楽しい。とはいえ、F先生以外(内側と外側含む)の人たちは異なるだろう。価格の高低に感情を露わにする。医療と価格の距離を直視しない。かまわない、そのかわり、身も蓋もない言い方になるけれど、保険制度が存在する「前提」を忘却している。今ある制度をあたりまえとせずに、一度破壊してゼロベースから枠組みを構築する。いかなる医療行為も無償じゃない。対価。お金は「交換」の役割を果たす手段としてきちんと機能している。交換は、治療のみならず。言葉の交換、礼節の交換、先生への尊敬と感謝の贈与など。

僕は、ビスポークの価値を理解できていない。先生によると、全身を構成する200余りの骨の1/4が足に集中しているとのこと。貧弱な想像力しか持たない僕は、「足」を包む靴をつくる複雑性を映像と言葉で描けない。つくづくバカだと嘆息するだけ。ため息まじりに左へと目を移す。

最後に、どうしても残る疑問を山口さんにぶつけた。
「靴下の厚さによって、履き心地も変わってきますよね。その点はどうなのですか?」
「簡単です。本当に合う靴を手に入れたら、靴下は一種類に決めて、それしか履いてはいけないのです」

“脳はもっとあそんでくれる (中公新書ラクレ)” (茂木 健一郎) P.66

質問が秀逸なら回答は素敵。

目の前に見える現象は単純、その単純を描いているのは複雑。複雑であればあるほど単純に表現する。その対価は? 高低にあらず。

それが「あたりまえ」だ、と僕は思う。

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