最近、桜の木を見たことがあるか?

皇子山公園の紅葉

「最近、桜の木を見たことがあるか?」

「いいえ」

「そうなんだよな、花が散った桜は世間からお払い箱なんだよ。せいぜい、葉っぱが若い五月くらいまでかな、見てもらえるのは。だがそのあとも桜は生きている。今も濃い緑の葉を茂らせている。そして、あともう少しすると紅葉だ」

「紅葉?」

『葉桜の季節に君を想うということ』 P.466

目に映っていない、あるいは見逃している。否、見えていない。見ようとしない。紅葉は美しい赤と黄で彩られる景色だ、という先入観。美が意識を誘惑し、沈んだ色を意識から奇麗に手際よく取りのぞく。意識は取りのぞかれたことを知覚しない。麻酔で微睡む間に脳を掬い取られたかのよう。遠くに望む美しい紅葉へ躰を近づける。一歩一歩。手に触れられるほど。一枚一枚の葉は、じっと見つめると汚れている。穴から空が見える。

一つ一つは汚れているのに全体になると美しい。錯覚かもしれない。不思議。だけど、沈んだ色をした葉桜の一枚一枚は、全体になっても認識されない。美しい全体のなかの一部となってしまって人々の目から隠れる。見ようとしない限り、見えない。

見えているものより見えていないもの。見る力をもたらす使者は想像と思考。目に映る範囲を広げる天使は行動。行動は躰を動かすだけじゃない。行動は頭の中にも存在する。

「そうなんだよな、みんな、桜が紅葉すると知らないんだよ」

「赤いの?」

「赤もあれば黄色もある。楓や銀杏ほど鮮やかでなく、沈んだような色をしている。だから目に映らず、みんな見逃しているのかもしれないが、しかし花見の頃を思い出してみろ。日本に桜の木がどれだけある。どれだけ見て、どれだけ誉め称えた。なのに花が散ったら完全に無視だ。色が汚いとけなすならまだしも、紅葉している事実すら知らない。ちょっとひどくないか。君も桜にそんな仕打ちをしている一人だ。[…]」

『葉桜の季節に君を想うということ』 P.466-467