記憶? 学習? 学問?

「シロクマの毛はなぜ白いのか」と質問されたらドキドキする。あっ、質問は適切な文章じゃないかも。答えの仕組みをちゃんと理解したいからもう一度中学の理科を勉強し直さないとダメだなぁと思った。クイズ番組に出題されたかもしれない。だけど、そのときの解答は「名詞」または「固有名詞」にすぎない。今のクイズ番組がどんな問題を出題しているか知らないけど、テレビの制限を考慮に入れると、トリビアルな問題に終始していると想像する。その手の問題を解く能力は記憶だ。

回答がもたらす現象と仕組みを理解する過程が学習だと思う。だから記憶と学習は混同しちゃいけない。記憶は答えを暗記し、学習は(答えを知った状態で)答えに到達するプロセスを学んでいる状態だ。算数なら計算して解を算出する。そのとき、計算ができることに一喜一憂してしまい、定理や公式をおざなりになってしまう。一度正しい式を作成できれば計算はコンピューターができる。だけど公式を暗記する。証明を知らずに。

公式を暗記したり式を計算する作業は、自ら問いを作成する領域に足を踏み入れていないような印象を受ける。だから学問と言わないのかなぁと考えたりする。学問という漢字を絵画として眺めると、問いを学ぶと見える。それは問いを自ら作成する思考であり、ひとつの問いを作成するには、そもそも考えなければならない事象は何かをまず探求しないと掬い取れない(ように感じる)。さらに、ひとつの問いが複数の問いを招き入れ、無限のごとく広がっていくのじゃないかな。だから、一つ知れば十知らないことが増える、と研究者は言う(と何かで読んだ)。

子供の科学

仕事でも同じだ。マーケティングやプロモーション、戦略やSEO、SEMといった専門用語(なんて思わないけど)を並びたてる。経営用語しかり。愚痴を言えば、そういった専門用語を口にしたりメールで使う人は自分の知らない専門用語に出くわすと、カメレオンみたいだ。記憶していない恐怖と記憶している人への畏怖。同時に、専門用語に麻痺している。自分で調べようとしない。

仕事で歯科衛生士の方々と会話する。会話している最中は意識していないのに、一人になって会話を再構成するとき、印象に残る人は共通点を持っている。それは、患者に記憶させないで学習してもらう術を追求している点。学問まで望めないし、また望まない。患者と話すときタームを駆使して患者に覚えて帰ってもらう、のではなく、なぜそうなるかを教え、いっしょに考える。やがて患者が自分で学習していくようにうながしていく。そのプロセスに専門用語は用いられない。

学問してますなんて胸を張って言えないし、言う必要もない。それに私はまだ学習をはじめたばかり。それもスタートラインに立ったにすぎない。でも、「あっ、これがひょっとして学問かもしれない(いやぁ、そんなわけないでしょう)」と体感できるホビーをいつの日かひとつ掴みたい。