ふれる

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

先日、携帯のメールを書いているときに、「逢う」の代わりに「ふれる」と打った。ふと思い浮かんだこの言葉、なぜかはわからないが、自分のなかで妙にしっくりきた。正しい語法なのかどうか無視。そしたら今日、今読んでいる 『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 に次のような文章に遭遇した。驚き。

「ふれあい」ということばがあるが、そういう美しいが擦り切れたことばではとても描ききれないような怖い「ぶれ」がここにある。

『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 鷲田 清一 P.173

文中の「ここ」とは、十年来まったく眠れない少女の訴えに医師が自宅まで行き、診断したときのエピソードを指している。さらに続く。

ことばにも、ひとのからだにじかにふれてくるところがある。きめがある、と言ってもいい。ことばは、メッセージとして、あるいは記号としてなにかある意味内容を伝えるだけでなく、声としてだれかにふれてくる。ことばがふれる、あるいは届くというこの出来事は、じぶんのそれとは響きを異にする声がいわばからだを撃つ、あるいは皮膚にまとわりつくということではすまない。つまりそれは、声を出すものと声を受けるとるものという、二つの身体のあいだで起こる声の移動、つまり送信モデルで理解できる出来事ではないのだ。そこに起こる同調とか共鳴、共振といった出来事は、ひとの存在に大きな「ぶれ」を呼び起こし、ついには「ふれ」させもする。

『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 鷲田 清一 P.174

「ふれあい」という言葉は、いまでは毒のない美しい標語として使われる。標語はこの言葉がもつ厚い意味をすり減らした。

「ふれる」は主体と客体を隔てない。そこには、自ー他、内ー外、能動ー受動という区別を超えて、ふれるものとふれられるものとが互いに浸透や交錯する契機を含んでいる。

「ふれあい」に潜む「ふれる」は、二つのコミュニケーションが交差する。それはことばの交換と皮膚の接触。

自分がなぜメールで「ふれる」を使ったのか?

「会う」という言葉をわざと避けたと思う。「会う」という行為の前に、「ふれる」は存在しないかもしれない。でも、「ことば」が相手のからだにじかに「ふれる」としたら、メールで「ふれる」を表現したいために”ふれる”と使いたかったのかと読みながら考えた。

不思議。「ふれる」をかように考えれば、毎日私は「ふれて」いる。

誰とか?

自分。じぶんが話すのを聴く。話すと聴くの両者には絶対的遅れが生じる。話す自分とそれを聴く自分に発生する原距離。その中で生成される感情が「ぶれ」をおこし、距離を失ったとき、気が「ふれる」のだろう。

「ふれる」とはたおやかなひびきを持っている反面、狂わすにおいを感じさせる言葉だと感じた。