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[Review]: 狂気という隣人
- 2007-10-11 (Thu)
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先日、名古屋地裁である事件の論告求刑公判が開かれた(参照)。2005年2月、犯人は生後11ヶ月の男の子の頭部にナイフを突き刺し殺害した。男の子は頭部にナイフが突き刺さったまま夥しい血を流しており、母親が抱きかかえて絶叫していたという。検察側は「あまりに凄惨。誰もが計り知れない恐怖を覚えた」と指摘しつつ、「無期懲役が相当だが、被告は当時、心神耗弱だった。遺族の被害感情を考えると断腸の思い」として有期刑で最長の懲役30年を求刑した。
私たちの周囲には数多くのスキゾフレニック・キラー(統合失調症の殺人者)が存在しています。彼らの多くは検挙されても不起訴になり、裁判で事実が明らかにされることもなく、精神病に入院した後何年かすると再び社会の中に戻ってきているのです。『狂気という隣人-精神科医の現場報告(新潮文庫 (い-84-1))』 P.106
統合失調症の発症率は人口1%。これは全世界で変わらない。スキゾフレニックと呼称される予備軍はその数十倍ともいわれる。本書の物語は「向こう側」の出来事ではない。登場人物はみな”隣人”である。なのに実感がともなわない。いやそれどころか、私が「彼ら」になるとはつゆほども疑っていない。
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[Review]: そして殺人者は野に放たれる
- 2007-10-05 (Fri)
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昨今、凶悪事件が増加していると耳にする。それが事実なのかどうかわからない。むかしから凶悪犯は存在する。それが”マス”と相乗してクローズアップされているかもしれない。もし凶悪犯たちが私たちの「範疇」を越えたとき、野に放たれる(可能性が高まる)。昨年、私が住む滋賀県でふたりの園児が惨殺された(個人的には刺殺ではなく惨殺と受け止めている)。事件の概要は滋賀県長浜市園児殺害事件を参照していただくとして、容疑者はその後起訴され裁判中。「心神耗弱」を争っている。事件当初の衝撃にくらべ全国報道の時間が極端に減った。ゆえに地元新聞やメディアをとおして事態の推移を私は見守っている。
タグ: cognition, dialogue, drama, life, mental, philosophy, psychology, psychosis, Review, think凶悪犯罪が、一〇〇%の理性によってなされるという発想も、一〇〇%の異常性によってなされるという発想も、私は間違っていると思う。しかし、こんなあたりまえのことが、専門家たちには承服できない。だから未だ日本には、凶悪犯罪者を心神喪失により無罪にする法(刑法三九条一項)はあっても、心神喪失により不起訴あるいは無罪にした凶悪犯罪者を処遇する施設が一つもない。『そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)』 P.67
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[Review]: 身体から革命を起こす
- 2007-10-03 (Wed)
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何がトレンドになるかわからない。社会現象にはその下地が蠢動しているものもある。それらの現象はティッピングポイントを超えると爆発的に感染する。それが、今の「身体」なのかもしれない。甲野善紀先生は内田樹先生の著書にたびたび登場する。身体の使い方そのものを研究している。スポーツ科学全盛の発想とは正反対に位置し、なかば常識となっている動きを否定する。
「私が研究してきたのは、剣術にも体術にも共通するような動きの原理、身体の使い方の原理ですから、スポーツにも応用できます。ただ、それは今日のスポーツの常識とはまったくちがった動きです。だからこそ現代のスポーツの常識では無理だと思いこまれてきたようなことを可能にするのです」『身体から革命を起こす』 P.14
この言葉どおり先生の動きを目の当たりにしたスポーツ関係者や武道家は目を丸くする。定説では説明のつかない動き。体幹部をねじらない、足で床を蹴らない、反動を利用しない、言い換えれば筋力を発揮させないといった説明を前にして専門家は腑に落ちない。現代のスポーツ科学は「いかに筋力を最大限に発揮するか」が前提。それでも野球、ラグビー、バスケットをはじめ医療関係者などそれぞれのプロフェッショナルが先生のもとにぞくぞくとやってくる。百聞は一見にしかず。
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[Reivew]: ホスピタリティ
- 2007-05-21 (Mon)
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この間、ふれるについて書いてみたが、そのときに読んでいた『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』の最終章を深く入り込むように読んだ。最終章の表題はホモ・パティエンス。無学の私には初めて目にした言葉。
《ホモ・パティエンス》、苦しむひと。受ける、被る、苦しむ、容れるといった意味をもつラテン語の動詞patiorからきていることばである。パッション (passion)も同じ語源からくる名詞だが、これには受動・受苦・受難という意味のほかに、情念の意味もある。同P.233
V・フランクルは、「ホモ・パティエンス」の論考のなかで「理性的な判断のひと」である前に「苦悩を引き受けるひと」であれと語っている。”ひと”は深いところで「受難(passion)」であり、「苦しむひと(homopatiens)」であるという。
この受動や受容がもつ力をネガティブに受け入れるのではなく、それがもつポジティブな力を人間がもつ本質的な力だと定義する。そこに「聴く」が存在する。”じぶん”というものを中心に置かない思考。
さらに思考は「ホスピタリティ」へとしなやかにのびていく。
そこでもう一度「ホスピタリティ」の概念である。「歓待の本質は、客をもてなす主の側には求められない。歓待の本質はあくまでも、やってくる客をめぐって規定される」。シェレールによれば、ホスピタリティとは、<客>を迎え入れる者をその同一性から逸脱させるものであった。同 P.236
見落としてはいけないこと、それは、<客>ではなく<客>を迎え入れる者という点。<客>をおのれに同化させるのではない。その反対、おのれ自身を何かの帰属へのこだわりから解き放ち、異他化させることにある。”われわれ”の掟よりも<客>の存在のほうが優位をしめる絆。
ホスピタリティーは、世界をじぶんのほうから視る、じぶんのほうへ集極させる、そういう感受性への抵抗としてあることになる。わたしは自己のうちに閉じこもることができない。名をもった「だれか」として呼びかけられることで、わたしは<わたし>になる。 同P.237
わたしが誰かを迎え入れるとき、ややもすれば、「迎え入れる」という響きのなかに何か特別な地位についた自分を錯覚する。それについて私は間違いとは言い切れない。そこまで私の思考は到達していない。しかし、その錯覚から己を解放させる受難を引き受けたとき、ある事実に気づいた。その気づきをもってして我が変容したと他者から映るようになった。
私が体験した事実が本書に記されている。
ホスピタリティこそが、個の存在のかけがえのなさ、つまりは特異性(=根源的な単数性 singularity) を支えるということになる。そしてこの迎え入れられた個のかけがえのなさが、迎える個のかけがえのなさを支えるということになる。同P.239
迎える側から迎え入れる側を見る。異他化していないと、すべて「同じ」に映る。自分は一生懸命他者に接していたつもりであっても、他者からすれば「one of them」にしか自分は映らなかった。そんな経験はないだろうか?
迎え入れられた者が承認されたと喜んだ姿にふれたとき、迎える側は安堵する。ところが迎える側は己の「個のかけがえなさ」を支える「何か」に気づいていない。皮肉なことに、迎える側と迎え入れられた側の構造の逆転が、じつは、迎える側の<わたし>を存在させてくれている。
ホスピタリティの語源はラテン語のhospes。そのhospesが「迎えられる者」と「迎える者」、「客」と「主」の両方を意味する。むかしからひとは「それ」に気づいていた。
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[Reivew]: 無限論の教室
- 2007-03-26 (Mon)
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「我思うゆえに我あり」と考えた人は「無限」をどう解釈したのだろうと立ち止まり、それから「無限とは何を表現しているのだろう」と泥沼にはまりかけたので手をとった。「やっぱり、”無限”を考える資格のある人とそうでない人に峻別されるな」と得心。私は後者。だって、そもそも「無限とは何を表現しているのだろう」という問いが問いですらなく、そこから解へ導く「仕方」を身にまとえていない。これでは堂々巡り。
舞台は大学。もっとも人気のない無限論の講義を受講する男女の学生。教室にはその二人しかおらず、そこから話が始まる。登場人物は3人。先生と男女の学生。「無限とは何か?」を小説のようにすすめていく。
「無限は数でも量でもない」
と言われたときびっくりした。数学も哲学も無知な私には、数学が証明する「無限」も哲学が論考する「無限」もどちらも到底理解できない。以下の目次、各タイトルだけで「クラクラする」人もいれば「よだれがでそうな」人も。私は、第七・八週あたりがきつかった。まったくわからなかった。
- 第一週 学生が二人しかいなかったこと・教室変更
- 第二週 気まずい時間・アキレスと亀・自然数は数えつくせない
- 第三週 チョコレートケーキ・パラドクスへの解答・可能無限と実無限
- 第四週 全体と部分・キリンとカバ・次元の崩壊
- 第五週 実数・独身製作器としての対角線論法・喫茶店のネコ進法講義
- 第六週 実数とは何か・ピタゴラスと豆大福・余興
- 第七週 マジタ・ベキ集合と概念実在論・羊羹の思い出
- 第八週 一般対角線論法・無限の無限系列・カントールのパラドクス
- 第九週 土手の散歩・ラッセルのパラドクス・嘘つき・自己意識の幻想
- 第一〇週 直観主義・パラドクス断罪・虚構と排中律・ブラウアーの手段
- 第一一週 暑い部屋・形式主義はいかにして排中律を取り戻そうとしたか
- 第一二週 ゲーデルの不完全性定理・G・インドのとら狩り
「自然数は定義上数え尽くせないものである」と言われたらどう反応します?
「線分が無限個の点の集まりでできている」と答えたら、「それ、すばらしく愚劣な答えです」とユーモアたっぷりに返答されたり、「自然数と偶数はどちらが多くあると思いますか」と質問される。息つく間もなく、「多く」ではなく、集合には「濃度」の概念が存在する。
濃度って一体何だ(数学に濃度って…..)?!
こんな感じで読み手を引っ張っていってくれる。部分集合・全体集合からやがてラッセル集合へと進み、自己言及のパラドクスが織り交ぜられ、やがて終章、ゲーデルの不完全性定理へと到達。
いやはや、二千年以上前から地層のように重なってきた叡智がしたためられている。可能無限と実無限を最初に区別したのはアリストテレスのようで、人はひょんなことから「考える」を身にまとった瞬間から「神様のチェス」を横から覗く運命にあったのかと感じた。
いや、まったくわからない本もすがすがしい。でも一つだけわかったことは、いくつになっても勉強しつづける気力を失いたくないし、現に勉強できる環境へ感謝。
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