デザインは単につくる技術ではない。[…]むしろ耳を澄まし目を凝らして、生活の中から新しい問いを発見していく営みがデザインである。人が生きて環境をなす。それを冷静に観察する視線の向こうに、テクノロジーの未来もデザインの未来もある。それらがゆるやかに交差するあたりに、僕らはモダニズムのその先を見通せるはずなのだ。
“デザインのデザイン” (原 研哉) P.26
鍛金工房 WEST SIDE 33のご主人が若いお弟子さんに向かって諭していた。
「手が込みすぎやな。もっとシンプルにせなあかん」
感動した。
お弟子さんは自分の作りたい物を製作していた。ご主人が会社勤めの頃、「自分の作りたい物を製作する」願いは受け入れられなかった。だから、ご主人は59歳で独立した。自分の作りたい物を創りたいという一心で。そして、ご主人は理想の環境をお弟子さんへ与えた。
お弟子さんは製作に夢中。没頭した主観は素晴らしい物を創る。同時にデザインを複雑にする。あれもつけたい、これも足したい、見栄えはユニークになっていく。それと引き替えに「誰かが使う」現実を見えにくくしてしまう。
没頭した主観が帯びた熱。その熱をそっと冷ましてあげるご主人の一言。あーだこーだ言わない。ただ一言、「シンプルにせなあかん」と。
使う人が戸惑わない物。使う人が使いこなせる物。使う人が長く使える物。一見、見栄えはどこにでもありそうだけど、デザインは二つと同じ物がない。それこそまさにユニークだ、と僕は感じた。
今年の冒頭、このブログをリニューアルした。以前のデザインは裏ブログと同じ。とにかく熱を帯びた主観を排除したくて削った。まだ削りたい。もっとデザインしたい。とりいそぎ今のデザインにしてみたらページビューが伸びた。アフィリエイトをクリックしてくれる人が増えた(お礼もあるかもね)。不思議な気持ち。
見栄えを否定しない。大事。ウェブサイトを製作するときでも、「かっこよく」や「きれいに」などお願いされる。だけどとても困る。まず、僕の技術が希望に応えられない。これは致命的だと認識しているので、なんとか騙し騙しやっている。
ところが、もうひとつ困る事態が待っている。それは、主観的評価。「かっこいい」や「きれい」という評価。たとえば、Flash満載のサイトをカッコイイと感じる人もいれば、僕のように苛立つ人もいる。
まぁ、でも、それは言い訳、逃げ口上だ。そう理解してなんとか見栄えを整える。
気づいてもらえたはず。ここまで「見栄え」と書いた。「デザイン」じゃない。シンプルな見栄えと、シンプルなデザインは違う、と僕は認識している。
デザインと口にすると、クリエイティブな印象を抱く人がいる。それは一面にすぎない。デザインは自分の身の回りにころがっている。デザインを定義しなくちゃいけないけど、その定義するプロセスすらデザインじゃないかな。日常に「問い」があるはずなんだけど、僕は見えてない。見たい。見たいのに観察していない。観察を起動させる感性を身につけていない。「足す」の思考に惑わされている。
デザインは問いを発見する。デザインは躰を発見する。想像という究極の主観によって客観的視点を得たとき、デザインはシンプルになる。
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