観察をしてみようと一度決心すれば、まったく難しいことではない。ただ、体系的に、そして注意深く観察するには、訓練が必要である。私たちは、あまりに効率良く世間を動き慣れているから、多くの時間を自動航行に任せている。
“thoughtless acts”は、 便利をもたらしてくれる。あらゆる事象を処理するときすべてを意識的に思考して行動できない。24時間のうち、意識的に思考して処理した行動について、ぼくはいったどれだけの時間を費やしているだろう。
“thoughtless acts”は効率よく動き回るようにぼくの身体を操作してくれる。反面、困った状況を浮かび上がらせる。困った状況とは、焦点を合わせる努力をしないかぎり、「方法」を気づかない。
たとえば、三ノ宮駅の列がおもしろい。ホームの記号(∟)どおりに並ぶ人、つまり記号に従って長方形の短辺と長辺になるように直角を作って並ぶ人もいれば、無視してそのまままっすぐ並ぶ人もいる。
無意識の動作を中断され生活の流れが寸断されたとき、意識は起動して、自分たちの行動と前提について考えるようになる。焦点を合わせる特別な努力を求められる。
列車を待つ人々の列。ぼくは、その列へ並んだ。ふと前方へ目をやると女性が身体ひとつ列から右側へはみでている。ぼくの無意識は、意識モードへ切り替わる。なぜそこで? どうすれば、それがわかるのだろう? そのモードが相互作用を発見する。
そこではじめて、私たちは、日々の相互作用の中に自分たちが探しているシグナルに気づき、さらに分析するようになる。だから、常に見て気づくという訓練をするうち、私たちが当然のことだと思っているものに対して、しだいに気を配ることになるだろう。
当然のことだと思っているもの。それらに気を配ればデザインのヒントがある。天井に作業行程を貼る工場。極めてシンプルかつエレガントな方法だ。ぼくは自分の部屋の天井を有効に利用しているだろうか? ぼくは部屋のラックの支柱に帽子をかけている。本来の目的で作られた柱でないけど、この柱は問題を完璧に解決してくれている。
わからない、という免罪符が視覚と聴覚を休眠させ、特別な努力を怠らせる。見れば信じる、じゃなく、信じれば見るんだ。ぼくは初歩的なミスを犯している。それを森先生は指摘してくれた。
「ホームズ、いったい君は何がいいたいんだ?」
「いいかい、ワトソン君。君の初歩的なミスは、人が積極的に意図しない行動には、いかなる理由も存在しないと思い込んでいることだ」
『考えなしの行動?』 ジェーン・フルトン・スーリ, IDEO 訳者まえがきより
『考えなしの行動?』はアイデアの「仕方」を惜しげもなく披露している。皮肉な話、それはすべて日常にある。
発想って? 着眼って? 視点って? 見るべきものを見るって?