同じものを食べ続ける

快楽は悪か (朝日文庫)

つい先日、千日回峰を2度もやり遂げたという比叡山の高僧の食事について知る機会があった。その内容がすごい。1日2食、毎日同じ物を食べるとのこと。ふかした皮つきのジャガイモ、かけそば、季節の果物、お茶、それで全部だという。

『快楽は悪か』 P.136

朝日新聞に1年間掲載されたコラムをまとめた著書。批判が殺到したらしいとのこと。読者の評価を気にしていたら書けないし、そも、至極ご尤もな意見を述べられていると思う。そんなことはどうでもいいな。興味深かった点をひとつ。「毎日同じ物を食べる」という快楽?!

比叡山の高僧と同じ例として、内田百間の快楽がつづく。彼は、毎朝、果物を1,2種食べ、葡萄酒を1杯飲む。それと、英字ビスケットをかじって牛乳を飲む。昼は蕎麦。毎日同じ。昼の蕎麦のエピソードがおもしろい。そして夕食。間食をせず、ひたすら待つ。何故か?

「一日に一ぺんしかお膳の前に坐らないのだから、毎日山海の珍具佳肴を要求する。又必ず五時に始まらないと騒ぎ立てる。その時刻に人が来ると情けない気がする」

『快楽は悪か』 P.140

同じ物を食べる快楽より、たった一度の夕食をうまいものにする方法。いわばライフハックを実践していた。アプローチは違うけど、以前、小林秀雄の「一食たりとも不本意な物は口にせず」を紹介した。

最近、「味覚が敏感になった?」と聞かれた。やっぱりそうかと納得した。自分ではなんとなく感じていたけど、他者から指摘されて確認できた。心当たりはない。あるとすれば、1日の食べる量を減らして昼食を食べなくなったから。よくわからない。とにかく腹を空かせるようとしている。

って、前置きがかなり長くなりました。別に食べることに注目したわけじゃなく、筆者の評が食べること以外にも敷衍できるのではと納得したから。

毎日同じ物を食べたりしても、それぞれには味は違ってくる。自分が違うのか相手が違うのか。それをしみじと味わい分けるのも、また食の楽しみなのではなかろうか。

『快楽は悪か』 P.141

市川園の梅にんにくを毎日食べていると、躰の変調をなんとなく感じる(些末で恐縮)。日が経って味が変化している可能もあるだろうけど、同じ物を毎日食べているのに、すっぱさが違う。猛烈にすっぱく感じるときもあれば、そうでない日も。

食べ物だけにあらず、と思う。毎日、同じことを続けること。続けていくと見えてくる、自分が違うのか相手が違うのか、という言葉。ただ、「続ける」と書くと、極端な話、赤字でも続けるとか、伝統になった社内行事を惰性で続けるとか、都合の良い意味で解釈されかねない。いや、結局、自分の都合の良い意味にしか、「続ける」を解釈しない。その誤解を互いに認識できれば素敵だ。