[Review]: てつがくこじんじゅぎょう

哲学個人授業-<殺し文句>から入る哲学入門 (木星叢書)

「殺し文句から入る」哲学カフェ。永江朗氏が個人授業を受けるために鷲田清一先生のもとへ赴く。なんと贅沢な。23人の先人が残した「知」をテーマに繰り広げられる喫茶店での授業。小難しい顔で読むのはナンセンスかと思い、スタバでモカを楽しみながら気楽に読み始めた。毎回の「殺し文句」に興奮。エマニュエル・レヴィナスの講義には内田樹先生もゲスト参加。その一幕。

永江 研究室の看板は林床哲学研究室じゃないですか。でも、臨床じゃない哲学ってあるのだろうか。

鷲田 ない。僕の言う臨床というのは現場とかそういうのではないんですよ。他者を論じる時って、まず他者性について考えて、そこから触手を伸ばしてだんだんわかっていくという方法があるでしょう? レヴィナスは逆。いままでわかっていると思っていたことが、ある時、わけのわからないものになっていく。

内田 そうですね。

鷲田 臨床もそういうところがあって。臨床というと、「みんな苦労してはるな。助けにいこか」とか、「ケアしないといけない」とか思うかもしれないけど、僕はそういう臨床ってあんまり好きじゃない。そやなしに、「こんなもんや」と思っていた場所があって、助けにいこうと思って、そこに実際に立ってみると、いままでわかっていたはずのものが壊れていく。それが臨床やと僕は思う。

内田 なんと見事な。

鷲田 臨床って、何か世の中に大変な現場があって、そこに哲学のノウハウを使うとよくなるようにというのとは違うんですよ。身を置いたら、思っていたものが全部壊れてしまうという体験やね。

via: 哲学個人授業-<殺し文句>から入る哲学入門 P.107

バカな私は「臨床」を「経営」に置き換えて読む。怖いもの知らず。「苦労している現場」や「ケアしないといけない現場」があっても助けにいこうと思わない。むかしは助けようとしていた。だけど、自分にはそれができないと理解し離れた。それ以来、「実際に立つ」ようにした。いままでわかっていたはずの「思い込み」が音を立てて壊れていく。そこに「経営」があると思う。だから私は顧客に「解決」を売らない。売り方を知らない。「解決」も知らないし。私は「問題の立て方」を売る。「何が問題なのか」を徹底的に対話する能力。それを売る。必要とする顧客は少ない。「解決してくれ」と。だけど、解決するのは「臨床」であって、わたしはその傍らにずっとよりそうだけ。一度、問題を立てたら、顧客のそばによりそうだけ。すると、また「問題の立て方が間違っていた」という機会が訪れる。そのときはもう一度、「音を立てて壊れていく場所」に身を置く。顧客といっしょに。何度でも。

ホセ・オルテガ・イ・ガセト『大衆の反逆』で、哲学を「自己の生命をすり減らす度合にかかっている」と仮定し、だから「どうして哲学が自分のことを真剣にとりあげてくれるように要求することがあろうか」と結んだ。自分が確実だと思い立っている場所こそ疑い、堀り崩していく。運が良ければ「自分」に辿り着く。

不思議なもので「自分が確実だと思って立っている場所」からやってくる人が経営の「お手伝い」をする。でないと前へ進まない。その人たちは解決するために「制度」を持ちよる。「経営」に「制度」。うまくいくときもあれば失敗も。「経営って、何か組織に大変な現場があって、そこに解決のノウハウを使うとよくなるようにというのとは違うんですよ」があてはまるかも。

目的は定めても終点にたどり着けない

鷲田 シーツの皺を伸ばしたり、ティッシュの箱の位置を直したり。彼女は「はやく来てよ」といっているのに。でも、現実は事件から始まるんですからね。抱きついてしまったりとかね。哲学者はベッドを整えてからじゃないと、ことを始められない。悲しいことに、哲学者はみんなそうしてきた。「何から始めたらいいんや」と。その点、メルロ=ポンティはかっこいい。「哲学とは始まりの更新である」といった。いつまでたっても出発点にたどり着けない。起点だと思っていたものは、起点ではなくて成果だった。それを思い知らされるのが哲学だ。

via: 哲学個人授業-<殺し文句>から入る哲学入門 P.57

モーリス・メルロー=ポンティの「哲学とは始まりの更新である」という言葉に震えた。スタバでやばかった。泣きそうで。わたしはよく「ようやくスタート地点にたった」とか「まだスタートラインにもたってない」とか書く。それを書きながら、「はて? スタートラインってどこにある?」と首をかしげ、「じゃぁ、ゴールラインってあるのか?」と訝っていた。正直、「スタートラインに立った」と書きながら一度もゴールテープを切った経験がないから。

でも、ああ、そうか「スタートラインを書き換えていく」ことが自分の「作業」なんだと納得。その作業に「自己の生命をすり減らす度合がかかっている」のだろう。「経営」、とくにわたしのような個人事業主をはじめ個人に拠る小さな組織(組織と呼称するのかどうか???)は、「続ける」ことが絶対の目的だ。ゴーイングコンサーン。だけど、ときおり「続ける」ことがあたりまえになって薄れてくると、「目的」を定めて、「終点」を脳裏に描く。そして、「お手伝いする」人はさも終点に到着できるかのように制度を提示し、「解決」を目の前へ。

でも、それは蜃気楼だろう。数字で表現すれば、今年がよければ来年もよくなるわけでもない。今年も来年も「よい」と判断できるのは、「自分が確実だと思って立っている場所」にいる人。立ってない人は不安を抱えて、毎日を更新する。「継続する」ために「自己をすり減らす」というパラドックス。そこには一喜一憂することなく粛々と起点を書き換える主体が存在する。書き換えさせるのは他者。

一寸先は闇。時々刻々と変化するなかで、クールに対応する。最終目的への影響を最小限にとどめる「判断」の繰り返し。それが「日常」だと思う。そして「日常」ほどむずかしい経験はない。