[Review]: キッチン

キッチン (新潮文庫)

「自分は実はひとり」って感じた瞬間、目の前の景色の輝度とコントラストが高くなって、色彩があざやかになったかな。アンニュイの質もポジティブに。ときにネガティブも。ゆらゆら。時間はスローに空間は無に近づいて。「ひとり」ってフィジカルじゃなくてメンタル。そんな日常を掬いとっているのは私だけと思わない。でも、「自分は実はひとり」と感じた瞬間、ぜんぶわからなくなった。コミットメントとインディファレンスを往来しているような。

私、桜井みかげ“は文字どおり「ひとり」。どんな感じかな。

彼女たちは幸せに生きている。どんなに学んでもその幸せの域を出ないように教育されている。たぶん、あたたかな両親に。そして本当に楽しいことを、知りはしない。どちらがいいのかなんて、人は選べない。その人はその人を生きるようにできている。幸福とは、自分が実はひとりだということを、なるべく感じなくていい人生だ。私も、そういうのいいな、と思う。

『キッチン (新潮文庫)』 吉本 ばなな P.82

感受性の強さからくる苦悩と孤独にはほとんど耐えがたいくらいにきつい側面があると私も思う。あいにく私は自身の感受性が強いか弱いかわからない。たぶん持ち合わせていないのだろうと思ったりもする。それでも、苦悩と孤独にまとわりつく絶望の淵をのぞくような側面を否定しない。

だけど、そう思うのも傲慢だし自意識過剰だなって自分につっこむ。

ときおり、「なぜ生きるの?」って問いかけがネットの界隈にころがっている。おおー、ひところよく向き合った。それもなつかしい話。「ひとり」を対偶から考えて自分なりに咀嚼した。桜井みかげや田辺雄一のようにフィジカルとメンタルの両方が「ひとり」になって、「もうそこにいられなくなったすべて」を感じて、「二度と」がない重みを語感から感情へつきぬけたとき、その問いかけが「空」なのだとわかる、と考えている−−−−−それが今の私。

必死に生きるか、必死に死ぬか

ショーシャンクの空にモーガン・フリーマンが口にしたセリフ。

多少の工夫で人は自分の思うように生きることができるに違いないという信念で書き上げたキッチン。随所に「多少の工夫」があってドキリとする。でも、私のなかでひとつ違うこと。それがこのセリフ。「必死に死ぬか」が抜けている。

コインの表裏のように「生」があるなら「死」もある。だけど、「死」を忘却して「生」をつかみとってしまいがち。ニコイチだよね、やっぱり。おまけにどうして生まれてどうして死ぬのかなんてわからない。そのうえコントロールできない。その絶対不可視の「存在」の狭間にあるのが「生きる」だと思うわけよ。

人が死ぬことと生きること、寂しさと優しさ、コントラストが際立つ中に不思議な調和がある。だからおもしろい。

無機質なキッチンにぬくもりを宿らせ「命」をあたえた。小ぎれいに使われているキッチンともう使われなくなったキッチン。物質、キッチンなのに差異を感じ取るのは残された人。