[Review]: 脳と仮想

脳と仮想 (新潮文庫)

世情を眺めると嘘から真をとりだす人が現れたなぁと思う。嘘をつく。その嘘にさらに嘘を薄く薄く塗っていく。だんだん”ほんとう”に。ついには嘘が「現実」だと認識。錯覚だよと私には判定できない。知らないわけで。ただおそらく世間は嘘を現実だと認めるわけないだろう。嘘はやっぱり嘘だと糾弾。あたりまえだな。でも、すこし引いてみる。”世情”や”世間”は「現実」だろうか。別に形而上を歩いたり、言葉を遊ぶつもりはない。表裏なき単純なギモン。「現実と仮想」を峻別するのは”何か”?

そもそも、人間にとって、自分の意識がある、ということほど確実なことはないはずである。物質的世界こそ確実だ、という近代科学の世界観は、おそらく公共的倒錯とでもいうべき奇妙なねじ曲がりの上に成り立っている。現実の世界がないというわけではない。現実は、きっとある。しかし、現実自体は知り得ない。私たちが把握できるのは、意識の中の現実の写しだけである。だとしたら、この世界で確実なのは、現実の世界ではなく、意識を持った自分だけではないのか。

『脳と仮想 (新潮文庫)』 茂木 健一郎 P.228

『方法序説』が判断している。疑えるものすべてを廃棄したとき残るものは何か。20世紀、科学は意識から距離を置いた。物質で構成された世界のすべてを数式で表現しうるとした。意識を捨象して。

目の前に宝石がある。「金」を交換して購入した物質。方程式で書き記す。ならばそれは「現実」か? この宝石を誰かに贈る。その愛は方程式で書き記せない。同じ行程で誰が実験しても同じ結果にならない。反証の余地なし。ならば「仮想」か。

「現実」も「仮想」もすべては一千億の神経細胞が造り出す脳内現象。1リットルの物質が生み出す意識の表象。

目の前にいる人と同じ景色を見る。同じモノを食べる。でも、同じ色を見て、同じ味を噛みしめているかどうかなんてわからない。わからない、ですませられない。想像を絶する断絶。ややもすれば絶望だろうと私は思う。なのに絶望させず日常を生活させる力も意識にある。

言葉は絶望を拒絶する。

絶対不可視の他者を知ることは根本を照らせばありえない。私と他者、その断絶に言葉を架ける。つながりと非つながりの交錯。交錯も仮想か。「あの人はこうだろう」と予測をたて、その予測が当たるかはずれるか。当たれば”わかった”、はずれればまた当たるまで予測を立てる。予測を立てている時点で、私の意識のなかの現実であって彼(彼女)の現実じゃない。それに気づかない。すれ違いがおきたとき仮想がぶつかり感情が芽生える。言葉を重ねる、”わかる”まで。

他者の心が判ったことにするだけである。

脳と仮想を考察できる知性と知識を持ち合わせない。読了してもいっこうにわからない。それでいいのだと思う。「私」とは何か? わからない。けど「意識を持った自分」なら理解。ただそれだけ。あとは「経験」を追憶し「未経験」を探索。追憶が現実で探索が仮想、でもないだろう。ことはそうカンタンじゃないはずだ。知性も知識も体得していない野生は目の前にある有限の現実世界と無限の仮想世界の集合を往来して脳が造り出す現象を終えるまで五感と意識を駆使するのみ。

「意識を持った自分」の現実だけが現実ではなく、他者がもつ絶対不可視の現実も現実。でも一切の「現実」は空。それをわかっていたから「創造」が営まれたのじゃないかな。それに芸術というラベルをはったにすぎない

感じるものにとってはこの世界は悲劇であるが、考えるものにとっては喜劇である。P.73

悲劇と喜劇で十分じゃないか。それ以上あったらそれこそ嘘から真だろう。