[Review]: すばらしき愚民社会

すばらしき愚民社会 (新潮文庫)

テレビの司会者とコメンテーターに首をかしげたことありません? 「どうしてこの人にその質問をするのだろう?」とか「どうしてこの人にコメントを求めるのだろう?」って。テレビって素人目にもオカシイことがフツーなの?! たとえば金融の専門家に犯罪とか謝罪会見とか親論なんか尋ねてたり。エエ〜と思うのは、独身の人が親子論を滔滔とまくたてる画面。そういうとき思うわけデス。ひとつの専門的知識を持っている=全人教育を受けたかのように錯覚させるのはどうかなぁと。まぁ、錯覚するのほうにも課題アリですけど。

私は昔から、政治家が政治をやるのは許せるが、学者が政治をやるのは許せない、と思ってきた。同じように、高卒や短大卒の者が仮に知識・教養において劣っていても当然のことだが、有名大学や大学院を出て、なお愚であるとすれば、それをもって真の「愚民」と呼ぶべきである。

『すばらしき愚民社会』 小谷野 敦 P.303

私は大阪経済大学卒業。なので猫猫先生の主張によると三流大学卒。うっ、まさにそのとおり。だから「学士」の称号を与えてもらうのは失礼な話。おまけにそのバカが意見を言うようになってきた。だから始末に負えない。ウンウンそのとおりと納得。どうして納得か? 本書の醍醐味は多数の実名を一刀両断しちゃうところ。それぞれの主張を批評する。その批評たるや容赦なき。批評って難しいですよ、ホント。ってしたり顔で書くコト自体、”バカ”な愚民の証なんですけどね。でもいやマジで、膨大な知性と自己を知覚する叡智を宿していないと批評なんてできやしない。だから得心。

あらためてギモン。そもそも愚民を形成する母集団、すなわち”大衆”って不思議。というのも、大衆と書けば自分もその一員だと自覚するけど、「大衆」と書いた途端、なにやら違う様相を呈しているように受け取る。その対には「選良」や「選民」が伏流しているようで二の足を踏む。

とにもかくにも「大衆」と書くのをためらうのはリヴァイアサンのようなよくわからないシロモノがあって、それを訳知り立てしたくないという本能が働くからだろう。

そうそう、大衆の近似値かもしれないのが”世間”(と推し量る)。先日、今、巷を賑わしている弁護士がテレビでコメントしているのを視た。以下意訳気味。司会者が、「○○弁護士の意見」と言ったところ、

「あれは僕の意見じゃなくて、まぁ、世間というか、世間の人が思っているであろうことを代表して言ったことで…」

みたいなことを口にした。裁判になっているからあまり言質をとられたくない? それにしてもヒドイ。アノ弁護士は自分の言動を電波にのせていて、そのあとに、「世間」を代弁しただって。

いつからアノ弁護士の前に「世間」が明確になって、代表に選ばれたのか私にはよくわからなかった。少なくとも私はアノ弁護士が例の弁護団を批判している内容に賛同していないし、もちろんナンタラ請求をテレビで紹介した経緯にも与しない。

私が「愚民」と呼んでいるのは、豆腐屋や靴屋やトラックの運転手や、競馬やパチンコの好きなお父さんではない。電車の中で七人がけのところに六人で座って詰めようとしない連中や、携帯メール中毒になってじっと携帯を見つめている若者は、部分的に愚民であるが、もし大量に愚民が存在する領域があるとしたら、それはいわゆる知識人、つまり「大学」や「学者社会」、そして大学院生や学生たちなのではないかという気が、今ではしている。

『すばらしき愚民社会』 小谷野 敦 P.306

著名人や有識者に「判断」を求めようとしたとき、それらの方々が依拠している経験と知識をもとに論じる点に異論をはさまない。でも、それ以外のことを口にしたら本当なら吟味しなくちゃならない。でもテレビにそんな”ゆとり”はナイ。経験と知識のほかにインテリジェンスの要素がスパイスしなくちゃいけないのに、それがズボッと欠落していてもおかまいなし。

結果、あたかももっともらしい論調が諸手をあげて迎えられ、”どちらか”にふれる。「たたく」か「たたえる」か。

自分が知らないことを知っている人が持つ欲望、その欲望を探求する「欲望」を己が持たなければ、”知らない”なかで”知っている”だけが跋扈する。そしてその知っている範疇もますます狭くなり、やがて愚民を形成する母集団がとてつもなく広くなる。わずかばかり知っていてもあとは知らない母集団、知る努力を怠った集まり、叡智を持たぬ人々。

そのリヴァイアサンが猛威をふるいはじめたのではないだろうか。