[Review]: しあわせになる禅

しあわせになる禅 (新潮文庫)

最近どうもイライラ。むかしより自覚している(つもり)。だからイラっときたらすぐにイカンイカンとひとりごち。スゥっと落ち着かせる。でも「イラッ」とくること自体をコントロールしたいわけです。イラッとこないようにね。別に周囲に配慮するやら他人のためにとか”大人”なふるまいを纏いたいわけじゃない。そもそもムリな話。じゃなくてオレのためです。判断が鈍れば災いは我にふりそそぐ。誰もケツを拭いてくれない。結局、自分の判断ひとつで自分が決まってしまうから「イラッ!」はなんの得にもならない。百害あって一利なし。

いままでの時代、偏差値が高いだけの薄っぺらな人間や、商魂のたくましい人間だとか、ごますり、おべっか使いといった安物の人間が妙に羽振りがよかった時代でした。まぁ、経済至上主義の世の中では、その手の人間がのさばります。だが、これからはそうはいきません。厳しい時代には、人間として本物でないと、絶対に通用しません。そのことは、歴史が証明しています。

『しあわせになる禅』 ひろ さちや P.4

里が浄土真宗なので欧米風に言えば、私は「無宗教」じゃない(と思う)。なんて建前で無宗教。でも”教え”には興味を持っている。それも不純な動機。自分を律するためだけ。自分の中に棲む”unknown”が何かを探求し、先人が達した道理をほんのわずかでも理解したい、そしてそれらを把持して生活に実践してみたい、というのがホンネ。

『しあわせになる禅』 に書いてあることは禅の根本原理。わずか五つ。”わずか”と書いてすぐにシマッタと舌打ち。

  • 莫妄想 – 余計なことを考えるな!
  • 一得一失 – なんだっていい。
  • 自灯明 – 他人のことはほっとけ!
  • 放下著 – 常識を捨てろ!
  • 竿頭進歩 – がんばるな!

五つの根本原理の解釈はひとつじゃないところに吃驚した。たしかにそのとおりですね。というこは、ヒトの解釈なんてますますわからないのはあたりまえ。それをあたまりまえだという前提で接しないとダメだなぁ、その点オレはまだまだだなぁと反省。

原理という単語はあまりスキじゃないし、できるだけ使わないように意識してるつもり。でも”原理”をぼんやりと考える。シンプルな文章が与える多用な思考。そして多用な思考から導出されるシンプルな文章。この循環が私に「想像」を付与してくれるのじゃないかなぁ、なんて。

過去は絶対変えられないし、未来を自分の描くとおりに統制できない。目的や目標を持てば後悔する。過去を否定して未来を作る。でもそこに現在が”アル”と問うているだろうか。

結局、今、ココにいる自分、それが現在。それ以外には自分はどこにもいない。にもかかわらず泰然と構える自分は現在にいない。オロオロする毎日。それは”明日がある”とどこかで信じているから。2000年以上も前に生きていた人が言ってるじゃないか。

カルペ・ディエム