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(多数他人-自分)×意識=個人
- 2008-08-07 (Thu)
- Diary
「子供にはみんな、力を合わせることが大切だ、なんて幻想を教えているようだけど、歴史的な偉業は、すべて個人の仕事だし、そのほとんどは、協力ではなく、争いから生まれている。いいかい、重要な点は…..、ただ…..、人は、自分以外の多数の他人を意識しないと、個人とはなりえない、個人を作りえない、ということなんだ」 『今はもうない―SWITCH BACK』 P.483
8/5の火曜日、NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべてを視た。久しぶりに88分間も坐ったからどっと疲れた。伝達効率の低さを再確認。88分間のなかから学んだことはひとつ。愛読ブログのひとつ、finalventさんの備忘を拝借する。
茂木「何か宮崎さんの表現者の秘密に関わっている気が……」
宮崎「奥の方の蓋開けると社会生活上問題が起こるんすよ、いろいろ。でも、そうものが自分たちの中にずうっと伝わってて、やっぱり物語作るとき、だからひょいと顔を出すんよ。それでびっくりするす。」
via: NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべて 「ポニョ」密着300日、見たよ - finalventの日記
宮崎駿監督がサラッと口にした内容に震えた。集中治療室にいた友人に会いに行き、その友人を車の助手席に乗せて自宅まで送り届けたという行為が社会生活上問題を起こす。なぜなら友人はすでに死んでいたから。死んだ友人が迷ってはいけないと思い、自宅まで届けた。ここまでくればもう迷わないだろと一言残して助手席からお降ろした。友人を乗車させるとき、助手席のドアをきちんと開けて。大多数の人がオカルトかと一笑に付すかな。
本人だけが認識した事象に興味はない。震えたのは、その事象をきちんと自覚して、「奥の方の蓋を開けると社会生活上問題が起こるんすよ」と言葉に還元にしたこと。「宮崎駿」という固有名詞でなければ、「気でも狂ったか」と思いとりあげない。複雑な要素に遭遇してわからなくなったとき、それを記号化して単純化してきた。単純化できなければ、排除した。もしくは地中深くに埋めた。「誰か」と書くのは藪蛇だ(笑)
私が「感情を抑制する」人間であると聴くと驚く人がいるかも知れないが、実は驚くべきことに私は喜怒哀楽の感情を外に出さないことに心理的資源の大半を日々費やしている人間なのである。
私の内面に渦巻く感情の激烈さは「こんなもの」じゃない。
それを力ずくで抑制して「こんな程度」に収めているのである。
若い頃は「ウチダは自分の感情をあらわにしない。思っていることをそのまま口に出して言ったらどうか」と多くの人に責め立てられたものである。
でも私はその忠告に従わなかった。
私が感情的発言を抑制したのは、そうしたらみんなが私から遠ざかってしまうことがわかっていたからである。
私は内心を吐露することよりも「みんなといっしょに楽しくやりたかった」のである。
それでいいじゃない。
「自分を偽ってでもみんなと仲良くしたい」というのが私の根源的趨勢であった。
だとすれば、その趨勢をこそ「自分」と呼ぶべきであろう。
その程度のことで「偽る」ことが可能であるならば、それはもともと「自分」と呼ばれるに値しない幻想的なセルフイメージだったのである。
私は感情を抑制することで、おのれの欲望に忠実たらんとしていたのである。
この「感情を抑制すること」で欲望を実現するという戦略を採用する人は今少ない。via: 感情教育 (内田樹の研究室)
「こんなもの」じゃないと書く行為自体が感情を前景化させているので感情を抑制していないのだろう。私にはできない。想像するだけ。ほんとうに抑制する人は、感情について書かないし、完全に制御するし、意識もしない、そもそも抑制という概念がない、とたぶん思う。
構造の矛盾を理解したうえで内田樹先生は書いた、と思う。それは伝えなければならない経験だから、と思う。
「偽る」は「ほんとう」があるから存在する。だから自分から「ほんとう」という単語を外側に出してしまえば、「偽る」は存在しない。あとは理屈をこねるか、ただ「行動」するか。行動の中心にあるのは、「なんだかよくわかりません」という屁理屈。
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[Review]: 日本の行く道 - 錯覚すると恐ろしい言葉
- 2008-08-01 (Fri)
- Review
「自立」という言葉には、「自立を口にした途端、自分の自立は実現されたと思い込んでしまう」という錯覚が、その初めから隠されていたんだと、私は思っています。[...]「私は自立を宣言した=私の自立は実現した」という状況が現出してしまったのではなかろうかと。そういう錯覚が「自立」という言葉に紛れ込んで、あまり意識されぬまま、「自立」というその言葉だけが定着してしまったのではないかと、私は思っているのです。『日本の行く道』 P.114
幸いにも「どうすれば自立できますか?」と質問された経験をもっていない。「自立」は錯覚させる言葉。錯覚したまま大人は子供に「自立」を促す。「自分にとって自立というのはどういうことなのか?」と思いついたとき、面倒になる。マークシートのように選択できない。でも、さかんに使われる。「自分のことは自分でしなさい!」の代用に。「自分のことは自分でしなさい!」はあたりまえだ。だけど、あたりまえを実行できているかと自分に問えばおのずとどの面も下げられない。
『凶気の桜』に「消し屋」が登場する。なんでも「消す」。消し屋に「どうすれば消し屋になれるんすか?」と尋ねる。「明日から消し屋になりましたと(裏の社会に)伝えればいい」と。よく似た質問をプロの○○に尋ねる人がいる。「どうすればプロのカメラマンになれますか?」と。「名刺を作って明日から事務所に配ればいい」と答えるプロ。固有名詞は宣言すれば実現されてしまう(かもしれない)。あとは他者の評価の問題。対して普通名詞はやっかいだ。宣言すれば実現できるような事象じゃない。
「さっさと自立しなさい! 自立しろって言ったでしょ!」で子供が育てられてしまえば、子供は、「なんいも分からないまま」でも、「大人」になってしまうのです。世の中が、その程度の「促成栽培の大人」でもかまわないということになっていたから、これで通ったのでしょう。「さっさと大人になってしまった子供」に、「君は本当に、”大人”なのか?」と聞いても無駄でしょう。「自立しろと言ったでしょ!」は、「大人になれって言ったでしょ!」の同義でもあって、これに対して「はい」と言った瞬間、「自立」になり「大人であること」は達成されてしまうのです。『日本の行く道』 P.117
「さっさと大人になってしまった子供」が「大人」の年齢に達したとき、「本当に君は大人になったのか」を検証をする。検証するのは誰? 無駄だ。四方八方から飛び込んでくる情報を意識的に捨てればわかる。検証された「さっさと大人になってしまった子供」は不安に陥り心を病む。大人は子育てしたと宣言し、子供は自立したと宣言する。互いの宣言を受け取った途端、自分の宣言内容と違うことに気づき、「心の病」が全身を蝕む。心の病を抱えたさっさと大人になった子供たちが突然生まれたかのように大人は受け止める。自分たちが発した「錯覚すると恐ろしい言葉」を置き忘れて。
「大人」を日本、「さっさと大人になってしまった子供」を国民と置き換えれば、ほんの少しだけ「日本の行く道」が見えてくる。それは自分が歩く道。
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顔・顔・顔
- 2008-07-24 (Thu)
- Diary
スポーツ観戦が好き。特定のスポーツ観戦じゃなく幅広く観る。といっても、「観戦」が好きじゃなく、スポーツの現象を眺めるのが好きといった感じ。眺めた現象を自分で再構成するのが習慣になっていた。「観戦」自体が好きじゃないと書く理由はあって、昨年あたりから観る機会が減ってきた。好きなら減らない(と思う)。減った理由は単純で、時間配分を見直したから。ベクトルが変わると、それに応じて費やすリソースと配分の時間は変わる。おまけに勉強(そんな大げさものじゃないけど)したいから、その分の時間を増減させないといけないので。
それでも欠かさず観るスポーツはある。その一つが全英オープン (ゴルフ) 。他にはウィンブルドン選手権やモナコグランプリとか。共通点は分かってもらえるかな。今年の全英オープンは眠い目をこすってテレビにかじりついた。グレグ・ノーマン のプレーに魅了された。もちろんゴルフはやったことないのでわかるはずもなく、ひたすら表情と振る舞いをインプットしていた。
私は「顔」と「声」に興味を持っている。興味というより観察の対象のほうが適切。「顔」には滲み出る「何か」があると錯覚しているし、「声」には惹きつける(あるいは忌み嫌われる)「何か」があると誤解している。身体が感知する信号みたいな。なかなか言葉にできませんね、やっぱり。
前置きが長すぎた。興味深い記事を引用。
翌最終日の2番ホール、ティーショットをラフに打ち込んだ尾崎は、ドライバーを持ったままセカンドショット地点まで歩いていった。尾崎は、そこでいつもそうするように、ボールの後ろの芝生をドライバーで押さえつけると、クラブをアイアンに持ち替えてショットを打ったのだ。彼は、前日までも同じような行為を繰り返していた。いやそれは長年にわたる彼特有の「習慣」でさえあった。
尾崎将司の「習慣」にノーマンは競技委員を呼んだ。
ノーマンは違った。競技委員を呼ぶと、尾崎の行為は「ライの改善」に該当する可能性があるという指摘を行ったのだ。“世界最強”で、かつ当時の“世界最良のゴルファー”からの指摘はまったくもって妥当なものであった。
協会、主催者、同伴競技者、ゴルフジャーナリストたちが見て見ぬふりをしてきた「習慣」に対して日本ゴルフ協会の競技委員はノーマンに言い放った。
「日本と米国では芝の質が違うため、日本ツアーではそれはルール違反には当たらない」という意味不明の説明でノーマンの忠告を退けたのだ。
ノーマンは次の言葉を残して日本を去った。
「ゴルフのルールは誰に対しても平等であり、世界共通でなければならない」
今より良いクラブを常に求めた尾崎将司と同じクラブを調整しながら長く使った青木功。日本の尾崎と世界の青木。ゴルフの外側にいる人ほど対比にのめりこみやすい。対比は現象を観察するのに必要かもしれないけれど、対比の表面張力に頼ると思考はあらぬ方向へすすむ。
毎日、自分の顔と対面する。見ているようで見落としている。馬齢を重ねた私の顔を自分で認識するのは困難だ。だから他者から自分の顔を確認する。その作業を怠った顔にはなりたくないなと独りごちる。
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見ているものより見落としているもの
- 2008-07-19 (Sat)
- Diary
昨年からラディッシュと青紫蘇を育てている。育てると書けばおおげさなので家庭菜園の初級といったところ。
昨年も今年もムシがやってきた。ムシが青紫蘇やラディッシュの葉を食べている。下の写真(拡大版)の中央にいる。特にラディッシュの葉は穴だらけに。それがおもしろい。昨年はオモシロイだけだった。今年、水をやりなりながら小首をかしげた。
「どうしてムシはココに葉があると認識しているのだろう」
そぞろ歩き(ムシに使うのは変だけど)をしているとたまたま葉があったとか(そんなわけない)。じゃぁ、嗅覚か触覚か視覚か。はたまた、親が産みつけてもともとココで生まれたのか。疑問はつきない。
日常の生活に身を沈めたとき、見ているものより見落としているもののほうがたくさんあると思う。あたりまえと受け取ってしまうから不思議に思わない。「不思議」という言葉を頭に思い浮かべる時間と空間が少なくなっているのかもしれない。
京都の町屋は鰻の寝床。その玄関の前に立ったとき、奥行きを脳裏に描く。無意識の作業。住宅も同じ。玄関の真正面に立って側面と裏を無意識に描く。空間の認識を映像として補完しているのかなぁと勝手に想像している。それは「不思議」よりも反復作業みたいなものだと。だけど、いざ鰻の寝床に招かれたとき、奥行きが頭の映像より深ければ驚く。頭で描いた仮想現実と身体が感知した実体とのズレに違和感を覚えるからなのか。差異を認識できたとき、不思議がやってくる。
鏡も不思議だ。毎日歯を磨きながら上下がひっくりかえらないのはなぜだろうと。左右は反転するのに。上下は反転しないのか。
森羅万象の仕組みに不思議をあてはめて探求できれば解決できるかもしれない。だけど不可能だ。不可能よりも先に精神が破綻をきたすかもしれない。だから頭は強制的に「スルー」させているのだろうか。そんな不可能を評価したあと、スルーし続けるか、それとも抗うか。それは身体の反乱。頭と身体の二元論を超越する苦行。
私の目の前にいる人々。私はその人を見えている。だけどほんとうは見落としているもののほうがたくさんあるのだろう。見落としているものがたくさんあると認識させてくれるのは他者でしかない。
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必然の伝えると偶然の伝わる
- 2008-07-16 (Wed)
- Diary
考えていることを伝える。「それは”考える”ではない」と指摘されても。伝える手段はたくさんある。数多のなかから言葉を選択する。言葉は無限か有限か、今の私は知らない。その前に思考が無限か有限かも知らない。もっと前、「思考」をしたことがないと思う。極めて少ない己の語彙を取捨選択して伝える。伝えるは言葉を選択した者に訪れる必然。だけど伝わるのは偶然にすぎない。
伝えることを表現したとき、「伝える」とおりに「伝わる」機会はやってこない。いかように伝わっているかを知るよしもない。否、そもそも自分が発話した言葉が自分の耳に到着したとき愕然とする。「伝えることはそうじゃない」と。常に自分は遅れてやってくる。その自分に呆然とする。
Action is eloquence
必然の伝えると偶然の伝わるに拘泥したとき、我が身に訪れた。表現しているのは行為、それを言葉にした。煌びやかな逆説。
伝えると伝わるに存在する径庭。そこに伏流する言葉。そして最後に思考。最後にして原始の思考。
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LAUNDRY
- 2008-07-15 (Tue)
- Diary
先週の土曜日、梅田へ足を運んだときにLAUNDRYのポロシャツ風Tシャツを購入。今夏3枚目。今年は10周年ではじめてのセール。横浜でも1枚買いました。
クールなTシャツはあきないわ。って、勝手に自分がクールと思っているだけですが…..orz
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Kさんはスゴイ!
- 2008-07-07 (Mon)
- Diary
M先生と飲んでいてちょうどOさんがやってきたとき、不在着信に気がついた。Kさんからの電話。以前、私の上司だった。ちょうどいいタイミングだったので電話を。何回目かのコールでモシモシとの声。私がテンプレートなあいさつをすませると、次に耳に入ってきたのは、
「ごめんな、飲んでる最中やんな?」
のセリフ。
「オ、オレは発信機でも仕込まれているのか」とあわててケータイを離した。
Kさんの頭の中にある私のパーツと受話器から聞こえてくるお店の音楽が結びついて口にされたセリフであったのかとあて推量。私がKさんを尊敬していて、かつ頼りにしているのはこの感性にほかならない。私が身につけられない感性。毎度のことだけど、Kさんの感性を目の当たりにすると身体がほぐれる。心地よい気分に。そしてファンに。
Kさんはほんとうにスゴイ!
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[Review]: 無所属の時間で生きる
- 2008-07-03 (Thu)
- Review
城山三郎先生は四十にさしかかるころ、仕事の上でのストレスから体重が47kgにまで落ちた。その頃、三種類の睡眠薬を飲んでも眠れなかったという。三十代半ばから筆一本。不安にかられると、「なぜ、退職したのか」との悔いが顔を出した。三十代最後の年、「耐えること、耐えること、耐えること」と、三度反復したメモ(ご本人は忘却の彼方のご様子)。会社勤めを一度も経験せずに経済モノを執筆なさった。周りには「岡目八目」と韜晦。「物事を過度に考える性格」と自己分析した先生。その三十代の風景を36歳の私は脳裏に描く。
戦後最大の財界人石坂泰三を調べていて、幾日か出張するとき、空白の一日の日程を組み込んでいることに、私は注目した。
旅先で好奇心の湧いた場所や人を訪ねるためもあるが、ただ風景の中に浸っていたり、街や浜辺を散歩したり。経団連会長や万博会長など、日本でいちばん忙しい男であるはずの時期でも、そうであった。
その空白の一日、石坂は二百とか三百とかの肩書きをふるい落とし、どこにも関係のない、どこにも属さない一人の人間として過ごした。私はそれを『もう、きみには頼まない』(毎日新聞社、のちに文春文庫)の中で、「無所属の時間」と叫び、その時間の大切さを、私なりに確認したつもりでいたのにーーーーー。『無所属の時間で生きる』 P.18
政官財界の偉人には、大病を患い入院生活を余儀なくされた時期を過ごした人がいる。無所属の時間と色合いが似ている。それら偉人や城山先生と比較する気は毛頭ない。私はといえばずいぶんとさもしい無所属の時間を手に入れた。いつまで続くかわからない。ただ自分なりに無所属の時間で生きている。 まったくなにもかも違う先生と私。ひとつだけ同じモノをすくい取れた。
もっとも無所属の身である以上、ふだんは話相手もなければ、叱られたり、励まされたりすることもないので、絶えず自分で自分を監視し、自分に檄をとばし、自分に声を掛ける他はない。
檄や掛声である以上、三度繰り返したり、また、毎年似たような文句を繰り返すことにもなる。
度し難い話だが、それが人間ということなのであろう。『無所属の時間で生きる』 P.127
度し難い話。うなづいた。絶えず自分で監視していると、過ぎてしまえば何ということもないモノに心配したり怯える。見えぬ姿に恐怖を先取りしたり。あらゆる方向から手をうたねばと思い、それがかえって己を惑わしたり。万事つつがなくは無縁。万事過ぎてしまって、のちに呵々大笑で呑めたら万々歳。それでいいと思っている。周りの草木がかわる景色を味わいつつ、自分は相変わらず自分に語りかけ、自分を叱る。
最近、中野孝次『人生を励ます言葉』(講談社現代新書)を読んで、
「何方をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず」(『徒然草』)
といったところに、マークをつけ、また、ある青年が、
「金を稼ぐつもりのものは左手で書いて、ぼくにとって大事なものは右手で書きますよ」
と言ったのに対して、ノサックが、
「その左は同じ身体についているのです。左手が触れた堕落の毒は、右手に感染するでしょう」
と答えたという話のところにも、マークをつけた。『無所属の時間で生きる』 P.128
マークをつけて自戒の日々。「今朝酒あらば 今朝酒を楽しみ 明日憂来らば 明日憂えん」を唱え、「一日を生きる」を大切にしようともがく毎日。ほど遠い。悶々として夜を明かしてしまうときも。翌日なにも考えずに外へ。数分歩けば歴史が現れる。歴史の場所から琵琶湖を望めばゆうに千年は変わらぬ景色を再認識。そしたら胸の渇きが薄れていく。周囲の景色に身を溶かし、五感が掬い取ってくれた水で胸の渇きを満たす。ときにはファインダーに。それだけで贅沢。
先生は言う、「人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である」と。深く生きる、ステキな言葉だ。小林秀雄先生の逸話。たしか、どなたか同じ逸話を紹介していたはず、出てこない。まぁいい。これもまた深く生きた証、と私は思う。
たとえば小林秀雄さんは、ゴルフが終わった後のパーティーなどでは、ほとんど箸を手にされなかった。
一食たりとも不本意なものは口にせぬ、という主義で、空腹のまま鎌倉へ帰り、小町通りの天ぷら屋など、ひいきの店へ行くという習わしであった。『無所属の時間で生きる』 P.107
口腹の快。楽しみを知る人が通う店がおりなす街。その街も深い。深さは一日にして成らないけど、深くありたいがため一日を生きる。どれだけ深いか自身で知るよしもない。見えるわけでもない。やがて私を往来する人が気づけば幸、気づかずば修養を積めておらぬと自分を叱咤。浅学非才の身、そんな程度だろう。
城山先生は還暦にあたってメモを残された。私にはまるで五箇条の御誓文のよう。それを肝に銘じてまた無所属の時間を生きよう。
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[Review]: 演劇入門
- 2008-07-01 (Tue)
- Review
演技と演出の違いを知らない。そんな浅学も演出家の仕事を読んで感銘を受けた。だけど肌で感じるような理解に至っていない。なのに平気で「演出」と口にする。これは変わらない。「演劇は誰でもそこに参加できる表現形態」であり「戯曲というものは誰もが書けるもの」だと同書は言う。ただし趣味に興ずるならばだろう。そうはいっても趣味に興ずるほど演劇は近いか。誰でもそこに参加でき、誰でも戯曲を書けるほどなのか。なぜ演劇は少なからず「離れて」いるのだろう。そのヒントは平田オリザ先生が指摘する「演劇の技術」にあるのかな。「演劇が技術ってナニ?!」って感じだ。技術なら伝えられるのか。
演劇の技術とは、「自分の妄想を他者に伝える」技術である。それが技術として確かなものであるならば、それは、ある程度の部分まで言語化できるはずなのだ。本書でまず初めに試みたいのは、これまで言語化されることが少なかった演劇の技術、劇作の技術を、できるだけ解りやすい言葉で書き記すことである。『演劇入門 (講談社現代新書)』 P.5
これまで言語化されることが少なかった演劇の技術、劇作の技術と断ずるのに驚いた。Wikipediaに助け船を出す。そうなんだ、得心。人が棲む「位置」を思い浮かべる。第一線の人から無名の戦士まで、誰もが世に棲む分野に「位置」を持つ(と私は思う)。位置は自分が定めても、たいてい他者が評価する。その位置のズレに一喜一憂。そう思うと、平田オリザ先生の「演劇の技術」を演劇界の標準値だと誤解してはならない。
リアルな台詞とは何か?
これは、相当に難しい問いかけだ。だが確かに、リアルでない台詞、説明的な台詞、もっと簡単に言ってしまえば「ダメな台詞」というものがある。『演劇入門 (講談社現代新書)』 P.12
舞台は美術館。主人公がいきなり入ってきて、いきなり、「あぁ、美術館はいいなぁ」と台詞をしゃべる。一見、極端な事例だと思った。そうでもないらしい。案外、この手の「ダメな台詞」は多い。物語を無造作に切り取ってしまう台詞。観客の想像力を奪う台詞。ドキリ。実生活でもそんな台詞をはいているかも。同書が問うとおり、「演劇のリアル」と「現実のリアル」は位相が異なる。現実の私が彼女と美術館に訪れて、「あぁ、美術館はいいなぁ」と口にしても周りの想像力を奪わない。微妙な空気が二人の間をほんのりと漂うだけ。他方、演劇で私が同じ台詞を口にしたらそこで終わる。ただし、同じ台詞をもう少し後、すなわち「遠いイメージ」から入ってだんだん「近づいた」ときに発話すれば、観客は「確かに」とシンクロする。言葉の不思議。コンテクストの魔力。
「あぁ、美術館はいいなぁ」の台詞をダメにしてしまうのは「リアル」の喪失。それは、「現実のリアル」と「演劇のリアル」の位相を重ね合わせる点を見いだそうとしない対話の欠如。位相を重ねるあわせるために先生は三つの問題を提起した。
- 現実世界の「リアル」と、演劇世界のリアルは、一見違うもののように思える。それはどうしてか?
- 演劇世界の「リアル」とは何だろう? また、それがあるとすれば、演劇の「リアル」は、どのように獲得されるものだろうか?
- なぜ、人は、「リアル」な演劇、「リアル」な台詞が書けないのだろう? 人間を「リアル」から遠ざけるものは何だろう?
他者とのコンテクストの摺り合わせが課題。演劇では「観るー観られる」の関係性に固定される。現実世界は「観るー観られる」の関係性が固定されていない。と、私が思っているにすぎない。現実世界だからという理由ですべてを無前提に受け入れているのではなく、無意識に世界の文脈を瞬息の間に捉え直し続けているだけだ。現実世界の「あぁ、美術館はいいなぁ」には時間と空間と発話のコンテクストが無数に存在する。その存在を他者とキャッチボールしている。演劇世界の「あぁ、美術館はいいなぁ」は、限定されたコミュニケーションに存在する。限定と非限定の差異が二つの「リアル」を引き離す。
演劇世界では、表現者と鑑賞者の間には、現実世界で行われるような、発語行為を伴う対話は成立しない。だとすれば、表現者と鑑賞者の間での、コンテクストの摺り合わせは不可能だということになってしまう。『演劇入門 (講談社現代新書) P.190
不可能を可能する「内的対話」。同書が打ち立てた仮説。「内的対話」は言葉なき無限の反復。現実世界は混沌に満ちている。それを演劇世界が解りやすく省略した図式で描こうとすれば内的対話は失敗する。演劇が求められているのは二つ。ひとつは、混沌を混沌のまま受け入れること。もうひとつは内的対話によって混沌の解像度を上げる作業。あとは観客がそれぞれの知性と照合して他者や外界との交点を探っていくだろう。
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F先生と愉快な仲間たち
- 2008-06-26 (Thu)
- Diary
00:05に鶴橋を出発して01:11に大津へ到着。帰宅後、ひとっ風呂をあびる。で、ブログにむかう。なるほど、悪酔いしない方法を発見した。
- 好きな人たちと痛飲する(あたりまえか)
- 笑いっぱなしになる(これが案外むずかしい)
- 話を肴に酒を浴びて情熱をもてあます(自分で書いているけどよくわからない)
ミーティングを終え、飲みにゆく。メンバーは院長のF先生、勤務医のY先生、ヨッシー、まっちゃん、いまちゃんと私。男性二人と女性四人。私と院長先生は”とりあえずビール”。Y先生は日本酒を。 私は外で飲むとき、痛飲しても酩酊しない。自宅や里へ「帰る」となると、身体が無意識に言い聞かせ抑制しているらしい。だけど、年に数回、「帰る」ことを失念して酩酊する。今日はその日だったようだ。おまけにみんなが同じ酒を酌み交わした。こんな機会はたいへんめずらしい。きっかけはY先生が嗜んでいらっしゃった日本酒をF先生が飲み始めた。そのとき、F先生は「飲む人」と声をかけ、残りの四人が一斉に挙手した。いつもならそれぞれが好む酒を注文するはず。今日はみなが同じ酒を飲んだ。そうさせたのは何か? その何かを追い求めていくのが私の興味。
四人が一斉に挙手してから冷酒が続々と運ばれきた。お猪口6つを持って「どうぞどうぞ」と酌み交わす。お猪口だから酒がクイクイ口に運ばれる。好きな人たちと話を肴にウマイ酒を酌み交わす。酒がウマイのもさることながら、人がウマイのだ。だからどんな酒を飲もうが何を飲んでもウマイ。もはやウーロン茶でも酔うかも(んなわけねぇ)。酔わないほうがおかしい(もちろん酒で、ですよ)。だけど不思議。頭も身体も酔っぱらっているのに悪酔いしない。気分はますます高揚す。
- F先生
- 酔うと”ピー”トークに花が咲き、爆弾発言多し。ヨッシー、まっちゃん、いまちゃんへの可愛がり方がすこぶるおもしろい。理論を愛する一方、理論への傾斜をひどく嫌う。そのアンビバレントなふるまいは他者を魅了す。
- Y先生
- 自分が不安を抱いている以上に患者が不安を抱いていることに気づいたから目の前の風景が様変わりした。様変わりした風景をキャンバスに描こうとする姿が懸命でステキ。
- ヨッシー
- たぐいまれな対話力と院長先生へのスルー力を持つおそるべきDH。スポンジが水を吸い取るかのごとく感性を身にまとっていくふるまいが異彩を放つ。
- まっちゃん
- 目は口ほどにものを言うを地でいく頼もしい存在。口ほどにものを言う表情(ふつうは悪い方に働くのに)が他者を惹きつけるのは天賦の才。
- いまちゃん
- 話によって食いつき、話によって食いつかず、その食いつきポイントが他者を幻惑す。悠然と受け止めたかと思えば、華麗に右から左に受け流し、時にカップヌードルタイムぐらいテンポがずれる。おそるべき異能。
これらいずれも私の視点。すべてフィクション。そんなわけない。だけど私の目にはそう映る。そうやって錯覚しつづけても身体と頭が拒否しないから傍らにいたくなる。
No complexity, No simplicity.
複雑なくして単純なし。私の名刺に刻んだ言葉。私がいまところたどり着いた気持ちを言葉にした。単純は美しい。だけど表に映る単純は裏に想像を絶する複雑を抱えている。同じ酒を飲む6人が抱える複雑な背景。わかりようもない。わかりようもないからこそ言葉にすべくもがく。そのもがく姿を肴に酒を飲む。五臓六腑にしみわたる酒と声。今宵はぐっすり眠れる。
私はほんとうに幸せだ。
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