イデオロギーを論じあってみたところで、何になるのだろう? すべては、立証しうるかもしれないが、、またすべては反証しうるのだ。しかもこの種の論争は、人間の幸福を絶望に導くだけだ。それに人間は、いたるところぼくらの周囲で、同じ欲求を見せているのだ。
『人間の土地』 サン=テグジュペリ P.220
認識と実践でウェブサイトを制作するけど"look nice"は苦手 でも"design"はやります
イデオロギーを論じあってみたところで、何になるのだろう? すべては、立証しうるかもしれないが、、またすべては反証しうるのだ。しかもこの種の論争は、人間の幸福を絶望に導くだけだ。それに人間は、いたるところぼくらの周囲で、同じ欲求を見せているのだ。
『人間の土地』 サン=テグジュペリ P.220
何が起きたのかいまだに受け止められないけど…..。
世界はあなたを弄び、世界はあなたを監視した。熱狂と侮蔑の眼を向けながら。
世界はあなたを愛し、世界はあなたに魅了された。
今、世界はあなたに癒される時。それが過ぎ去れば、世界はあなたを守ろう。
今、世界はたった一つの願い事を神に届けた。
安らかに休んでほしい。
心だけが、正しくものを見ることができるのさ。本当に大切なものは目に見えないんだよ。
M先生から教わった言葉をIさんへ贈ろう。
あなたが虚しく生きた今日は昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日
泣いて怒ったり そして笑ったり
誰かを愛したり いつも
花は咲き そして散ってく
それでも明日はやってくる
ヒトは、今でも、「身体表現を通じて自分を理解する」という不思議な手続きを踏んでいる。常識的に考えれば、「脳の持ち主は自分なんだから、脳内で自身に直接アクセスすれば、もっとストレートに自分を理解できるんじゃないか」と思うよね。「体を通じて自己理解する」というのは、理解までのステップが増えてしまって非効率だ。
でも、「生物は先祖の生命機能を使い回すことによって進化してきた」という事実を忘れないでほしい。
いや、「使い回す」ことしか、僕らには許されていない。「無」からいきなり新しい機能を生みだすことは進化的にはむずかしいことだ。そんな困難なことに時間を費やすくらいなら、すでに存在しているすばらしい機能を転用して、似て非なる新能力を生みだす方が、はるかに実現可能性が高いし、効果的だろう。
そうやって生まれたものが、僕らの「自己観察力」だ。これは「他人観察力」の使い回し。自己観察して自己理解に至るというプロセスは、一見、遠回りで非効率かもしれないけど、進化的にはコストは低い。
『単純な脳、複雑な「私」』 池谷裕二 P.181
自己観察から自己理解に至るプロセスを組織に適応してみる。
趙さんのお店は他人観察の使い回しをするにはうってつけの場所。焼きそば定食万歳。
観察をしてみようと一度決心すれば、まったく難しいことではない。ただ、体系的に、そして注意深く観察するには、訓練が必要である。私たちは、あまりに効率良く世間を動き慣れているから、多くの時間を自動航行に任せている。
すばらしいアイデアがひらめくとき、それは仕事の初日である。その次に、すばらしいアイデアがひらめくとき、それは会社を辞める日である。
歯科医院の先生方がぼくへ毎月支払っていただけるフィーを例えるならなんだろ? 定期健診の費用か? だとしたら来院者と同じ気持ちを院長先生は理解していることになる。そのあたりにとっかかりがありそうだ。