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混乱状態

琵琶湖

<<得意>> 人が自分の力と能力について造影することから生じるたのしみは、得意 GROLYINGとよばれる精神の高揚である。それは、もしかれ自身の以前の諸行為についての経験にもとづいているならば、自信 Confidenceとおなじであるが、<<うぬぼれ>> もしそれが、他の人びとの追従にもとづいたり、あるいは、それの諸帰結のよろこびのために、かれ自身によって想定されたにすぎなかったりすれば、うぬぼれ VAINE-GLORY[むなしい得意]とよばれる。その名辞は、適切に与えられている。なぜならば、十分な根拠をもつ自信は、くわだてを生みだすのに対して、力があるという想定はそうではなく、したがって、正当にむなしいとよばれるのだからである。

『リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)』 T. ホッブズ P.107

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私の電話はあいふぉーん

SOU・SOU 喫茶

iPhoneに浮かれる僕を戒める私。最近、自分が固着しているようなのでまとめておこう。

ところが、「ほぼ日」社内では
こつこつとユーザーが増えていき、
いつのまにか14名ほどになったんです。
いったいそれは、なぜ?
そして、どんなふうに使ってる?
そういったことを座談会形式で訊いてみました。

via: ほぼ日刊イトイ新聞 – My Phone is iPhone.

2009年3月末現在の携帯電話の契約数は約1億700万台(TCA事業者別契約数2009年03月末現在)。ソフトバンクは2,000万ちょっと。累計台数とシェアを表にした。

キャリア 累計台数 シェア
ドコモ 54,600,700 50.7%
au 30,842,800 28.6%
ソフトバンク 20,632,900 19.1%

日本でのiPhone台数は非公開。100万台を突破していないのではとか(“ゲーム機”「iPhone」が 市場を席巻する日(前編): 日経ビジネスオンラインによると50万台程度らしい)。全世界での販売台数は、2008年に1,300万台を突破して世界市場の1%を占める。

体感的な勢いと数字の事実は、感覚的にかけ離れている。日本のキャリアはハードの販売が目的だから、国内に「いるのかどうかわからない」程度のユーザへサービスを提供できない、と思う。全世界でも1%。ビジネスにならないと鼻であしらう。「携帯電話」のビジネスだから。

iPhoneは携帯電話か否か。僕は否のほう。App Storeでソフトウェアを探し、インストールして、情報の一元化とワンストップサービスをすすめている。「調べられるものをいちいち覚える必要などない」ものはiPhoneにまかせ、検索する(しなければならない)事象は何かを考える。その時間を増やしている。非効率的な考想のために効率的な行動を選択する。効率の精度を向上させ、非効率の深度をあげる。問いをつくることに知力と体力を注ぐ。今はPhoneが答えを探してくれる。つまり、知をインプット、愚考をアウトプットするインターフェースがiPhoneへ移行しつつある。PCのインターフェースを求めていない。

5年度どうなっているだろう。PCの役割は「創造」と「作業」に限定される。映像やWebサービスの開発、プログラミング、そういった「創造」側にいる人たちが使うマストアイテム。小説は創造だけど、PCを使わなくてもいい。携帯電話小説は携帯電話から入力すればOK。「ポメラ」でもOK(字数は制限される)。PC(的UI)を使わずに創造するジャンルが増えてくる、と僕は考察する。それと、事務やちょっとした文章作成など「作業」をするために使われる。でも、事務もシンクライアントへ移行すればいい。ローカルで演算させない。サーバ側で充分だ。年賀状なんてソフトを販売している会社がオンラインサービスを提供すればローカルで作業しない。PCはいらない。たしか携帯電話から年賀状を作成できますよね?

消費というか、サービスを受ける人がPCを使うシーンは消えてゆく、と考える。OS3.0がリリースされれば、PCを使うシーンはまた一つ消える。OS3.0によって、キーボードを接続できる。OS3.0は以下6つの新機能を提供して、ライフスタイルを提案する。「創造」側の人たちのアイデア。

  1. アプリ内での決済
  2. Bluetoothによるペアリング不要のP2P接続
  3. アプリへのプッシュ通知
  4. マップのアプリ内利用
  5. 周辺機器との通信、制御
  6. iPhone/iPod touch内の音楽ライブラリーアクセス

iPhoneを使う側(サービスを受ける側)の新機能は以下7つ。

  1. カット、コピー、ペースト機能
  2. Spotlight
  3. MMSのサポート
  4. BluetoothのA2DPサポート
  5. 多くの標準アプリでランドスケープモード対応
  6. カレンダーのCalDAV対応
  7. メモのiTunesシンクロ

7つの新機能が、PCを起動させる理由をまた一つ消し去る。

たぶん、iPhoneなら年賀状(やけにこだわるなぁ)をカンタンに作成できるはず。タッチパネルに手書きで書いた絵や文字をサーバへ送信し、連絡帳から送りたい人を選択すれば、オンラインサービスが年賀状を作成して「手書き風年賀状」を郵送する、と思う。

自分が話した内容を文章に変換してメール送信するアプリもリリースされたようだし、「発想」がスタイルを変える。携帯電話だと固着すれば、不便だし、宝の持ち腐れだろう。

便利になること、新しいことに拒否感を示す。それは、自分が使いこなせない(あるいはできない)理由を吐露しているにすぎない。「Do」を「Can」にすり替えている。僕が車を拒否する論理と同じ。だから、「iPhoneの利便性と革新性」を受け入れて、「車の利便性」を拒否する論理は自己言及の矛盾だ、と僕は認識していなければならない。この認識を忘れると、自分の都合のよいように「便利」と「新しい」を解釈して、それ以外を排除してしまう。排除は「技術」にとどまらず、「思想」にまで影響を与える。排除は「理解」の強要を他へせまる。無意識に。

だから、iPhoneに浮かれる僕はもっとクールにiPhoneの革新性を分析して他へ説明しなければ。排除してはいけない。使ってない人の方が圧倒的多数なんだ。理解してもらえなくてあたりまえなんだ。それを肝に銘じないと。

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町屋の顔

珈琲カップ

半熟玉子を手で割って、トロリとした黄身のところがおいしそうと思いながら、軽くすった胡麻をふわっとふりかけ持っていく。
すると、手が伸びて、スタイリストのTさんがテーブルの上に置く。H氏はすでにレンズをのぞいていて、すぐにシャッターを押し始める。彼の視線の矢印は、きっと黄身のところにささっている。
次の料理の準備をしていてふと気がついた。

『帰ってから、お腹がすいてもいいようにと思ったのだ。 (文春文庫)』 高山 なおみ  P.195

秋に行事が控えていて幹事をまかされている。その関係で奈良へ行く機会が増えそうだ。来月も行く。高校生の頃から京都へはよく出かけた。凝っていた時期は毎週出かけた。でも、奈良へはなかなか足を向けなかった。

奈良「県」の由来を読んだり町屋を散策していると、京都や大津の町屋と違う顔だと認識した。あたりまえなんだけど。文化遺産に目を奪われそうになるところをぐっと堪えて、町屋と生活に目と耳を緊張させる。

建築や木、歴史の知識を持っていたら違う楽しみ方もある、と思う。そういった分野に無知だから、目の前に広がるデザインをせめてそのまま受け入れようとゆったり過ごす。自分を楽しませ、他人を楽しませる。コンテンツを読解してプレゼンする力。演出。時間と空間の配慮。難しい。

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外に出た自分を見るのは誰

桜

人間には自分の自由と不自由とを自覚し分別し煩悩する自由がある。これは他のいかなる存在ににも見られぬところである。その上、その分別性のゆえに、他の自由を尊重し、他の不自由を共感する。煩悩(この場合ボンノウとよまぬことにする)する。つまり人間には、自分の外に出てまた自分を見ることができるはたらきがある。このはたらきの故に、人間は、自分らの社会集団だけでなく、自分以外の他の生物でも無機物でも何でも一つにした絶大の社会集団を認めることができる。

『新編 東洋的な見方 (岩波文庫)』 鈴木 大拙 P.69

この「はたらき」を見るのは誰か?を問い続けたい。問いなき固定は原理主義へ変容する。固着観念は強靱と脆弱の両刃を備える。

彼らの言うStupidな企業とは

・外人の来客に二級以下の人材で対応する

・担当者がクリエイティブじゃない

・会社のビジョンが明確化されていない

・危機感が欠如し、競争意識が乏しい

・業界の先行きについて意見を持っていない

・成り行きに任せていて、意志が感じられない

ということらしいです。

via: Stupidと言われてしまう企業の特徴 – Keep Crazy;shi3zの日記

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結界が決壊して陥穽が待っている

奈良町屋のカフェ

鹿に鞍をつけて、皇帝に献上し、「この馬にお乗りになって下さい」と言います。皇帝は、「これは馬ではない。鹿である」と答えました。趙高は、「そう思われるのでしたら、宮中の大臣たちを呼んで、鹿、馬のどちらかであるかを尋ねてみて下さい」と言います。皇帝が大臣や貴族をことごとく呼んで質したところ、全員馬ではないことはわかっているが、趙高の力を恐れて、「馬です」と答えました。皇帝が鹿と馬の区別について真剣に悩むようになったのを見て、趙高は、「これで俺に逆らう者はいない」と考えるようになります(『太平記』巻二六)。

『獄中記 (岩波現代文庫)』 佐藤 優 P.280

SOU・SOUへ行くと、「感性と感情を教育できるのか?」と疑問をいつも抱く。スタッフは心がはりつめている感じかなと僕は受け止める。けれど、決して居心地の悪い「心のはりつめている感じ」じゃない。むしろ、とても居心地がよい。なれ合わず、僕との会話が弾みかけると、他の客を配慮しておしゃべりをひかえる。そのふるまいが伝わってくるから僕も馬鹿騒ぎしない。しっとりした空間とゆったりした佇まい。

余計な一言がない。どこまでしゃべり、どこを抑えるか。それをスタッフが意識していると推察する。すべてを語り尽くさず、最小限にとどめ、あとは商品へゆだねる。商品を手に取る僕の感覚へまかせる。商品への自負がそうさせるのか? 疑問はつきない。

SOU・SOUの商品は尖っている。和のテイストで尖っていると表現するのはおかしい。それでも尖っている、と僕は思う。「我」をはっていない。デザイナを含め他ジャンルと共同作業している。他ジャンルとの融和、そして「シンプル」が商品を尖らせている。ブランド化。

一律の教育システムがあるならば、導き出されるふるまいは同一となる。効率を追求するチェーン店はそのシステムを採用する。当然。SOU・SOUはそうなのか(笑)

違う。差異がある。だけど、共通がある。素敵。バラバラにならず、ふるまいは似通っている。他方、微小な差異を含み、それぞれの感情と感性が調和されている。会社からコンセプトが提示され、それからズレないような接客の「仕方」を学ぶのか。違うような。あとは当人の感情と感性にゆだねるのか。推量の限界だ。あてもない愚の質問が浮かび上がっては消えてゆく。

しっとりした空間とゆったりした佇まいであっても、同じ調子のスタッフばかりいる店もある。まるで調教されたような口調と仕草。ASIMOもプログラムすればこうなるな、と僕は考える。

「心を常にはりつめる」という意味。それは自分への負荷。その負荷が苦渋なれば、周りの空間とと調整できず、他者を威圧する。丁寧に応じているようで粗雑。その攻撃は時に不快を招き、知らず知らずに他者は去っていく。負荷を苦渋とせず、修養とできるかどうか。

テキストにすればカンタンだ。行動は難しい。それは、自己言及の矛盾を意見してもらえるかどうか。結界を開いて、時に閉じる。そのタイミングを知覚したい。

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lose flesh

琵琶湖

先日、2,3年ぶりにお会いした方々から痩せたと指摘された。本人は自覚しているつもりだったけど、どうやらそうでもないみたいだ。というのも、被写体が自分の写真を現像してみて驚いた。構えた姿じゃなく他人としゃべっている姿だったので、これが「日常」だろうと仮定した。すると、自分が抱いている自分の全身像と写真の像に差異があった。微小な差異。

今年の話だと思うけど、ある方から「小さくなった」と言われた。その時は、「えぇ−」としか返せなかった。あとから「人間がですか?」と尋ねたら気が利いていたのにと悔しがったけど。なるほど、「小さい」とは言い得て妙だ。得心。

僕は、自分の姿を「もう少し厚みがある」と認識していた。一度、そう固定すると、鏡を見ているようで見ていないのだ、とわかった。実際は、薄くなっていた。この場合、薄くなっていたというのは、「引き締まった」のニュアンスを含まない。まるでカンナで削り取られたような感じ。

鏡を見ているようで見ていないと書いたけど、それは身体だけでなく、顔もあてはまる。これも先日の話、自分の顔を鏡で見ていて、「ええ、オレ、こんなにシミがあったかいなぁ」と鏡の自分へ話しかけた。びっくりした。シミを承知していたけど、シミの数というか、顔とシミのバランスがおかしいというか、とにかく違和感だらけだった。

これも身体と同じ。自分が想定している顔と鏡に映った顔に差異があった。差異と表現するのはおこがましいか。まぁ、錯覚。見ているようで見ていない。そういった発見、否、馬鹿な気づきが妙に多くなった。

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uncategorizable something

芝桜?

さまざまな動物の分類を吟味すると、それぞれの大きな群のうちに、多彩ではあるが何となくわけのわからぬ動物種を含む一群がたいていは設けられており、分類学者は一般にこうした群を「屑カゴ」ないし「ゴミ溜」と呼ぶ。「整理学」という書物を参照すると、整理の要諦は、「未整理」という箱を必ず設けることだ、と書いてある。分類が自然に存在する動物群をある一定の見方で整理するものである以上、どのような仕方で自然から群を切り取ったとしても、そこに「ゴミ溜」が残るのは止むを得ず、あるいはむしろ自然なのである。それは、ある特定の見方をとる、ということの当然の帰結、といったほうがよいかもしれない。

“ヒトの見方 (ちくま文庫)” (養老 孟司) P.284-285

Mail Boxを「年-月」というディレクトリで管理している。今ならどのようなメールであれ、「2009」のディレクトリにサブディレクトリ「200904」を作成してしまい込む。だけど、ときおり「uncategorizable」を作りたくなる。衝動をおさえる。Mail Boxならなんとかなる。

ファイルサーバのディレクトリはどうだろう? たいへん。なるべく日付で分類する。けど、クライアントごとのファイルへアクセスしづらい。ならば、まず「クライアント」と分類してから「日付」へと整理する。そうすれば、「共通」はどうなるのか?

ファイルサーバの分類は、自分の頭の限界を認識できる。「何をどう分けるのか」というルールを策定しなければならない。さらに、ルールを策定できても「ラベル」の問題が残る。結局、自分が知り得る言語内でしか「ラベル」を付けられない。僕はファイルサーバの運用に関して、3つのルールを設定している。

  • シンプルなディレクトリ構成
  • シンプルなファイル名
  • シンプルな時間軸

昔はもう少し厳しく設定していたけど、HDDの容量が120GBを超えたあたりから「何を残すか」と考えなくなった。ファイルをいちいち削除するより放置しておくほうが得策だ。むしろ、目的のファイルへアクセスしたいならどう検索すればよいか、へ重点を置いた。検索精度の向上。検索のインターフェースと技術の改善、ソフトウェアの選択など。Spotlightがほぼ問題を解決してくれそうな気配。

Mail Boxやファイルサーバの分類はモノローグだからそれほど難しくない。ところが、ウェブサイトの「分類」を考えるとカオスがやってくる。ダイアローグだから。

ウェブサイトを制作している時、「分類」に時間をかけている。サイト運営者の分類とユーザの見方は一致しない。運営者が専門家であればあるほど不一致の確率は高くなる(傾向にあると推察する)。「分類」は構造の設計と連関する。優れたサイトは、分類と構造が緻密に細工されている(あえて”優れたサイト”の定義をさけるけど)。ユーザは画面内の視認できる要素(アイコン・文字・色など)から一瞬で判断してボタンを押し次のページへ行く。意識しない。ましてや「分類」や「位置」など考えない。

ユーザは無意識でボタンを押す。それと並列してユーザは視覚と認識の不一致があれば「違和感」を抱く。違和感は混乱を招き、「位置」を確認する。検索は「分類」と「位置」の架け橋となる。

オントロジー、タクソノミー、フォークソノミは相互排他的なものではない。企業ウェブサイトのような多くの利用背景においては、オントロジーやタクソノミーによる公式な構造を定義することに投資するだけの値打ちがある。それ以外の、たとえばブロゴスフィアのような環境では、フォークソノミーによる非公式なセレンディピティがあれば、何もないよりはありがたいのは間違いない。そしてまた、イントラネットや知識ネットワークなどの場合には、両方の要素を組み合わせたハイブリッドなメタデータ環境を作るのが理想的だろう。

“アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅” (ピーター モービル) P.184

分類は構造と連関していると述べた。分類と構造が緻密に細工されたサイトは、高度なfindabilityを備えている。高度なfindabilityは充分な情報をもたらし、僕の意志決定に大きな影響を与える。

「分類」において僕が着目している事象は何か。それは、”uncategorizable something”を認識できるかどうか。何も置いていないデスクトップにファイルをひとつ置く。temporary。それが、僕のuncategorizable somethingだ。時の経過とともにtemporaryは保留へ変わる。それがいつ分類されるのか、そして何が僕に分類させるのか、その認知プロセスを自覚したいと切望する。

最後に。ここの「ユーザ」は分類されるのか、という前提を欠落して書いたなと自分の頭の悪さにあきれかえる。

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