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[Review]: ビジネス・インサイト

ビジネス・インサイト―創造の知とは何か (岩波新書)

彼らには、ある期を境に前後の事態がまるっきり違ってしまうという創造的瞬間があったこと、そして周囲の者にはしかと見えなかった成功のカギを見きわめたこと、そしてそれについて明確な確信をもちそれの実現のために集中的にみずからの力をそこに傾注し、組織の力を結集させていったこと、そのことを理解したい。

『ビジネス・インサイト―創造の知とは何か』 (岩波新書) P.90

“インサイト(=insight)”を調べると、「物事の実体[真相]を見抜く力」「物事の本質を見抜くこと」「洞察力」「眼識」と書いてあった。第一印象は、つかみ所のない単語。

将来を見通す力(=インサイト)

ヤマト運輸「マンハッタンの確信」, ダイエー「商品化の概念」, セブンイレブン「いつまでも埋まらない空白の棚」, これらの創業者は、経営の偶有性がもたらした様相を「眼で見て」、実体を「認識」した。そして、自分の考想が変革をもたらすと確信し、既存の枠組みから「跳んで」、新しいビジネスを登場させた。眼で見て実体を認識する瞬間、将来を見通す力(=インサイト)が発揮される。人はインサイトを持って生まれた性質として持っている。

「創造の知」は、マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫) と同種のメカニズムを持つと筆者は考える。よって、本書はマイケル・ポランニーの暗黙知の次元をよりどころにしている。暗黙知の次元の「暗黙知」と経営学が扱ってきた「暗黙知」を峻別する作業から始まる。

経営学が扱ってきた暗黙知は、形式知と対で取り上げられ、「見える化」へ変換される。しかし、これら「暗黙知」は、いわば名詞の「知(=knowledge)」である。

経営学の世界で暗黙知というと、職人がもつ「技」のようなものを指すと思われがちだ。たとえば、酒造りの杜氏の技とか、パンをこねるパン職人の技とか…..。口に出してうまく説明はできないが、素人では真似のできない「技」である。

『ビジネス・インサイト―創造の知とは何か』 (岩波新書) P.94

経営学は、「すでに存在する知識の実体=暗黙知」と定義し、頭の中に収まった知、あるいは躰に刻み込まれた知を言葉や数字で表現する知(=形式知)へ変換しよう、と唱えてきた。

ビジネス・インサイト=経営学の暗黙知ではない

しかし、ビジネス・インサイトー創造の知−は、これらの暗黙知と異なる。知は名詞ではない。動詞である。知ること(=knowing)、すなわち、「”それ”とはわからないうちに知ってしまう、隠れたプロセス」が、ビジネス・インサイトを論じる焦点である。隠れたプロセスには、「自分ではそれとして自覚しにく力」が作用する。では、そもそも自覚しにく力とは何だろうか? そこは哲学へ通底するためか、細かく言及されていない、とぼくは判断した。自覚しにく力の説明より、隠れたプロセスで発生する「認識」の説明にページを割いている。

ポランニーの主張である、「人が思うように、客観的な検証プロセスだけで科学が進歩してきたわけではない」ことを取り上げ、暗黙の認識にある3つの機制を例示する。

  1. 問題を適切に認識する
  2. その解決へ迫りつつあることを感知するみずからの感覚に依拠して、問題を追及する
  3. 最後に到達される発見について、いまだ定かからぬ暗示=含意(インプリケーション)を妥当に予期する

この3つ機制がもたらす力は、科学者自身の認識プロセスに隠れてしまっているから、”それ(=これが”暗黙の認識だという自覚”) を摘出しにくい。ビジネス・インサイトは『暗黙知の次元』 と同じ前提を経営に求める。科学の進歩には、「仮説ー検証」(=論理実証主義)以外に、「創造的な設定と、その解決策についての想像力」が必要だという前提である。

「論理実証主義(あるいは仮説検証主義)」型だけでは先細り

「仮説→検証」以外の力、言い換えれば、経営も同様、「論理実証主義(あるいは仮説検証主義)」型だけでは、企業は先細りしてしまう。

論理主義の限界として、以上の議論に関連して三つの問題を考えたい。第一は、状況依存ないしは一般化の問題、第二は、状況(場)の定義が抱える問題、そして最後に見えない何かを見通す力が実証主義の中で軽視されることである。

『ビジネス・インサイト―創造の知とは何か』 (岩波新書) P.34

興味深い点は、本書で紹介される事例はいずれも大企業であること。どういった事情から大企業を取り上げたか判別できない。ひょっとすると、大企業の経営は、「論理実証主義」型とはっきり判断しやすいからではないか。あるいは、大企業の規模や機能は「論理実証主義(あるいは仮説検証主義)」型を選択せざるをえないのかもしれない。

というのも、第5章ではケースリサーチの可能性と表し、業務改善活動を行う病院の取材を紹介する。大阪のある特別医療法人である。大企業ではない。ここでの研究テーマを発見していくプロセスが興味深い。それは、2つの質問から生まれた。

  • 業務改善活動を続けると、難しい問題が生まれる。それにもかかわらず続いているのはどうしてか?
  • 医者が業務改善活動にマネジメント側として関わるというのはどうしてかわからない

残念ながら研究結果は書かれていないが、このケースリサーチ自体が、仮説ー検証から「創造の知」を発見していくプロセスを垣間見られるようで参考になった。このプロセスは小規模な組織でも適応できる。

「問題と答えの一対一対応セット」ではなくなる

今の教育が「問題と答の一対一対応セット」であるように、経営もそうなりかねない。ところが、経営の問題と答えの対応はあいまいであり、時に答から問題を探す「逆向き指向」も必要である。事業計画を考えるとき、前提は明確でなければならない。その前提とは、「事業とは何か」が定められていること。そうして、外部環境を定数にして、最適な計画と資源配分を導き出す。

しかし、「事業とは何か?」と事業を確定させる作業は難しい。その作業を省略して計画を立案していないだろうか。

現在、ネットワークが発達しチャネルが豊富になった結果、コミュニケーションモデルは「価値→伝達→使用」から「伝達→価値→使用」へと変化した。消費者の行動も変わった。従来の事業定義が破綻し再構成される事態に直面してる。

外部環境は定数でなくなった。事業を構成する要素はすべてが変数になった。実体から共同の意志へと底が抜けた不安が当事者を襲う。

「顧客との共同制作物を作る」という感覚が現れ、その感覚をキャッチできる企業が、消費者と新たな「場」や「コミュニティ」を形成する。その感覚を摑む知は、ビジネス・インサイトを求める。

もう少し言うと、新しい知は、いつも私たちの頭の上、宙を漂っているような気がしている。そして、仲間と議論する中で、宙を漂う知が、あるとき、誰かに降臨し、さらにうまくいけば互いの承認の中でコンセプトやモデルの形に構成され、そして一つの知として表現される。知は、関係あるいはプロセスの中で創造される。

『ビジネス・インサイト―創造の知とは何か』 (岩波新書) P.240

やる気に関する驚きの科学 併読してみたら、つかみ所のない単語が少し形になって表れた。

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[Review]: バカ丁寧化する日本語

蓮

バカ丁寧化する日本語 (光文社新書)

当然のことだが、相手のことを考えないとコミュニケーションはとれない。敬語はその最たるものだ。相手のことを考える。すなわち、想像力なくして敬語は使えない。敬語が難しいと思えば、普通の言い方に直してみるといい。敬語という化粧をとると真の姿が見えてきて、おかしな日本語や失礼な表現に気づくことも多い。そうしたら直せばいい。そして、必要なら、改めて挑戦すればよい。

『バカ丁寧化する日本語』(光文社新書) P.216

公共機関や電車、店舗のアナウンスから聞こえる日本語。ぼんやり聞いていると気に留めないけれど、よくよく耳をすませば、変化した日本語がまじっている。本屋で『バカ丁寧化する日本語』(光文社新書) を手に取って目次を開いたとき、かねてより抱いていた疑問を見つけたので嬉しかった。その疑問は4つ。

  • させていただきます
  • ら抜き
  • さ入れ
  • を入れ

最近、「○○させていただきます」をしばしば耳にする。「させていただく」は謙譲語だ、と疑わない人が増えてきた。

筆者の野口恵子先生は、「目上の人に向かって(あなたに)電話すると言いたいときの表現は?」と、大学の講義で質問した。すると、真っ先に挙がった答は、「お電話させていただきます」だった。これには驚いた。ぼくは、「お電話差し上げます」か「お電話いたします」と予想したから。

「させていただく」の用法(この場合、古くから使っている言い回しの意味)から考えると、「させていただく」を、人によっては「慇懃無礼」だと受け止める。だけど、その人たちは今や少数派かもしれない。

たとえば、こんな新聞の投書があった。「都合により本日休ませていただきます」をおごり高ぶった表現だいう。それに対して反論の投書があった。「感謝を表す休業の表現として好感が持てる」って書いてあった。みなさんはどちらですか?

「させていただく」は、一体誰に対して謙遜し感謝の意を表しているのか? これが問題。敬語を使うとき、「誰に」を考えて、”尊敬”・”謙譲”・”丁寧”を選択する。おまけに日本語は、「二方面の敬語」もある。古典で習ったあのやっかいな言い回し。

野口先生は、「させていただく」を使う人々を「させていただきたがる人々」と評し、この言い回しに抱く違和感を、文法と用法に従って説明する。そこがおもしろい。先生は、バカ丁寧化する日本語をなるべく真っ向から否定しないよう心がけていらっしゃると読み取った。苦心が垣間見られるようでおもしろい。

日本語は変化してきた。変化に遭遇して、人は怒髪天を衝き机をバンバン叩いて批判する。そうやって、かつての「美しい」日本語を懐古する。それもひとつの反応。ぼくがひとつ申し立てるなら、雰囲気で批判せず、用法や語法をしっかり取り上げて懐古してほしい。

昨今、タレントの言葉が多大な影響を与えている。テレビを視ると、もう「ら抜き」単語は定着した。代表は「食べる」でしょう?! 「食べられる」が「食べれる」となった。現に、今、ATOK 2009 Macで「食べれる」と打ったら、「ら抜き表現」と叱られた。ただ、「ら抜き」も「揺れている」。「信じる」を否定するとき、「信じられない」と発音し、「信じれない」と発音する人は、今ところ少ないらしい。これもいずれ変わるだろうけど。

やっかいな「ら抜き」は「見る」の可能形。「見られる」が少数派になりつつあり、「見れる」が多数派へ躍り出た。そうなると、「見られる」を誤用だと思う人もいる。現に、外国人留学生が「食べられる」と発音したとき、日本人学生が「違う。”食べれる”だ」と教えたとの由。

大阪では、「さ入れ」が方言と相まって慣用扱いされている。「行く」は「行かさせてもらいます」と全国大阪弁普及協会には書いてある。ちなみにATOKは「さ入れ表現」と叱った。

そして、近ごろ、ぼくはある言い回しをとりわけ気にしている。「を入れ」言葉。「話す」はどうだろう? 「話す」を丁寧化して「お話をさせていただく」と発音する自分に後から気づく。先生によると、この「を入れ」は政治家が好んで使っているようだ。本書の冒頭、「皆様にワタクシの政策をお訴えさせていただきたく…… 」ってフレーズが登場する。もう目もあてられない。

  • 「来月サミットが開催をされます」
  • 「お願いを申し上げたいと思います」
  • 「このたび外務大臣を拝命をいたしました」

ここまで酷くなくても、日常で「を入れ」を使ってしまっている。ぼくの場合、ウェブサイトのページ制作の原稿を拝見すると、「を入れ」が登場する。特に、「名詞+を+動詞」が多い。一番多い例は、「○○を行う」形。「名詞+を+行う」は、使い勝手がよいのか、一枚の原稿に4,5回顔を出したりする。

ぼくは、日本語を書くとき、助詞に手こずる。助詞ってほんとやっかい。いま、文法を少しずつやり直していて、助詞がとにかくわからない。「に」「を」「が」「は」「へ」などなど。だから、「を入れ」言葉が余計気になる(わざと”に”を省略してみた)。

今、テレビは賛否あれど多大な影響を与えている。おまけに今のテレビは字幕までついている。語法や用法を吟味する時間はないから、日本が少々おかしくてもそのまま字幕.in する。それを耳にしたぼくはいつしかその言い回しを他で使ってしまっている。自分が口にした単語へ耳を欹てみると、顔から火が出る。

基礎体力がなくて基本的な練習もしていない人がいきなりスポーツ万能になれないのと同じで、敬語を使いこなせるようになりたければ、敬語以前の日本語能力、コミュニケーション能力をつけることから始めたい。知識もおろそかにできないが、知恵と創意工夫はもっと重要だ。そして、これからは机の上の勉強だけでは身につかない。

『バカ丁寧化する日本語』(光文社新書) P.241

敬語を使う。それは相手を敬い、相手と適切な距離を保つ。敬語の意味を忘れて、形骸化された言い回しを安易に多用して敬っているかのようにふるまったり、「させていただきたがる人々」は実は「させていただきたがらない人々」になったりしてまいか。目上の人に向かって「ご紹介してください」と言うのをおかしく思っていない自分がいてまいか。

もう一度、自分の言語能力を観察したくなった一冊。

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[Review]: 考えなしの行動?

観察をしてみようと一度決心すれば、まったく難しいことではない。ただ、体系的に、そして注意深く観察するには、訓練が必要である。私たちは、あまりに効率良く世間を動き慣れているから、多くの時間を自動航行に任せている。

『考えなしの行動?』 ジェーン・フルトン・スーリ, IDEO P.187

“thoughtless acts”は、 便利をもたらしてくれる。あらゆる事象を処理するときすべてを意識的に思考して行動できない。24時間のうち、意識的に思考して処理した行動について、ぼくはいったどれだけの時間を費やしているだろう。

“thoughtless acts”は効率よく動き回るようにぼくの身体を操作してくれる。反面、困った状況を浮かび上がらせる。困った状況とは、焦点を合わせる努力をしないかぎり、「方法」を気づかない。

たとえば、三ノ宮駅の列がおもしろい。ホームの記号(∟)どおりに並ぶ人、つまり記号に従って長方形の短辺と長辺になるように直角を作って並ぶ人もいれば、無視してそのまままっすぐ並ぶ人もいる。

無意識の動作を中断され生活の流れが寸断されたとき、意識は起動して、自分たちの行動と前提について考えるようになる。焦点を合わせる特別な努力を求められる。

列車を待つ人々の列。ぼくは、その列へ並んだ。ふと前方へ目をやると女性が身体ひとつ列から右側へはみでている。ぼくの無意識は、意識モードへ切り替わる。なぜそこで? どうすれば、それがわかるのだろう? そのモードが相互作用を発見する。

そこではじめて、私たちは、日々の相互作用の中に自分たちが探しているシグナルに気づき、さらに分析するようになる。だから、常に見て気づくという訓練をするうち、私たちが当然のことだと思っているものに対して、しだいに気を配ることになるだろう。

『考えなしの行動?』 ジェーン・フルトン・スーリ, IDEO P.187

当然のことだと思っているもの。それらに気を配ればデザインのヒントがある。天井に作業行程を貼る工場。極めてシンプルかつエレガントな方法だ。ぼくは自分の部屋の天井を有効に利用しているだろうか? ぼくは部屋のラックの支柱に帽子をかけている。本来の目的で作られた柱でないけど、この柱は問題を完璧に解決してくれている。

わからない、という免罪符が視覚と聴覚を休眠させ、特別な努力を怠らせる。見れば信じる、じゃなく、信じれば見るんだ。ぼくは初歩的なミスを犯している。それを森先生は指摘してくれた。

「ホームズ、いったい君は何がいいたいんだ?」

「いいかい、ワトソン君。君の初歩的なミスは、人が積極的に意図しない行動には、いかなる理由も存在しないと思い込んでいることだ」

『考えなしの行動?』 ジェーン・フルトン・スーリ, IDEO 訳者まえがきより

『考えなしの行動?』はアイデアの「仕方」を惜しげもなく披露している。皮肉な話、それはすべて日常にある。

発想って? 着眼って? 視点って? 見るべきものを見るって?

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[Review]: 臨床とことば

臨床とことば

聴くということはしかし、とてもつもなくむずかしい。語りは語りを求めるひとの前ではこぼれ落ちてこないものだからである。語りはそれをじっくり待つひとの前でかろうじて聞かれる。「言葉が注意をもって聴き取られることが必要なのではない。注意をもって聴く耳があって、はじめて言葉が生まれるのである」と、かつてわたしは書いたことがあるが(『「聴く」ことの力』)、じぶんがどんなことを言おうとも、そのままそれを受け入れてもらえるという確信、さらには語りだしたことを言おうとも、そのままそれを受け入れて問題にも最後までつきあってもらえるという確信がなければ、ひとはじぶんのもつれた想いについて語りださないものだ。

“臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知” (河合 隼雄, 鷲田 清一) P.210

『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』は2007/05/21にレビューした。その後も都度読み返し、寝酒代わりにパラパラとめくってる。03/15に臨床哲学の研修に参加して「言葉を壊す難しさ」を痛感した。日常の単語を壊せない自分。そこから出発した。そもそもから始めてみようと。

はじめに河合隼雄先生が臨床心理学と臨床哲学について書いている。臨床の知とは何かにふれている。15ページの短い論考とはいえ、「聴くこと」の意義を再認識できた。「言語とイメージ」の関係、語りを見守る態度、言語と非言語の狭間、人と人との間の「距離」、それらは対話に欠かせない。

そして、河合隼雄先生と鷲田清一先生の対談が始まる。 その中に登場した「言葉をほぐす」という鷲田先生の表現。驚いた。03/15の研修で使ったばかりだったからだ。言葉を壊す、言葉をほぐす、なんて何を表現しているのか。もし、言葉の役目は内容をきちんと伝えること、と定義するなら役目を果たしていない。言葉を壊すや言葉をほぐすは、言い方や言い回しに凝っているだけだ。そう自己認識してもなんだかしっくりきてしまう。

「臨床哲学」という単語。専門家は「臨床哲学」を専門領域の中で壊す。鷲田清一先生がグループではじめた臨床哲学は、養老孟司先生の『臨床哲学』と違うだろう。

臨床哲学というのがあるのだろうか。私は哲学には素人だが、哲学を横から見てときどき何か言いたくなる。それは患者が医者に文句を言いたくなる心理と同じようなものかもしれない。以前、「馬鹿の壁」なるものについて論じたことがある。これは、哲学者が人間の理解力をどう考慮に入れて仕事をしているか、に関するものだった。医学では基礎は冷遇されているが、哲学では臨床が冷遇されている。おそらくそんなことが気になっていたのであろう。

“臨床哲学” (養老 孟司) P.9

哲学者が名前を出さずに看護婦や小学校の先生、あるいは会社の人たちと話する。苦労したことは「言葉のすり合わせ」。哲学者が使う言葉と一般人が使う言葉、その意味やニュアンスを両者はわからない。態度も異なる。鷲田先生は「原因と理由」と発話する。それは、僕が抱いていた「原因と理由」と異なった。結論が出なければはがゆい一般人と答えが出ないほうが気持ちいい哲学者。両者は1年の時を経て、気がつけば「言葉のキャッチボール」ができるようになっていた。互いが待つ。言葉がほぐれる。

そういう哲学的な試みを臨床の現場は、なかなか取り込めない。取り込めないではなく、取り込む隙間がない。臨床は一回性。個別性と偶有性に満ちている。同じシーンは再び訪れない。河合先生の相手が、「先生、僕CIAなんです」と物語を語ったとき、どう反応するか。

鷲田清一先生の哲学的な問いと河合隼雄先生の臨床的な応答。読み進めると、河合先生が四次元で仕事をしているような気分に陥る。「聴く」ことの困難を超越しているかのよう。それを鷲田先生が三次元へ僕を引き戻してくれる。

対談は、「聴く」という僕の言葉を粉砕した。ルービックキューブの一面が揃いかけていたのにバラバラにされた気分。「聴く」とは一体何なんだ。

「聴く」ことの前後に挿入される語り。僕が他人の前で語る。僕がブログの前で書く。書き始めの考想が内容と違うことなんてしばしば。論理破綻している文章はざら。書きながら誰とも知らない「相手」としゃべる。

これでいいか、これが本心か、ウソとマコトの化粧か。自問自答。

「相手」には自分も含まれ、自分を多重化する。揺らぐのだ。揺らぎは不安定と連結し、不安を増幅する。

書くという行為でそうならば、語りはさらに揺らぐ。多重化する。なぜなら「声」が存在するから。僕は発話した声を自分の耳で聴き直す。僕は常に遅れて自分のもとへやってくる。語りの着地点を見いだせず、語れば語るほど、私へと自分の皮をむき始める。

先の見えない道を走る不安。危険。危うい姿。背後から眺める。見えない顔、聞こえる声。身振り手振り。相手の眼。

語りは自分をさらけ出す。聴くは待つ。時間を重ねる。聴くは言葉を迎えてはならない。言葉の能動性を奪ってはいけない。語りは言葉の宛先として、相手の五感を登録する。五感を登録できれば、すなわち言葉の宛先として相手から承認されたと認識できたとき、「ことば」は生まれ、語りはじめる。

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[Review]: 化粧する脳

化粧する脳

自分にとっていちばんの死角は、自分の顔である。
日夜、他人に曝しておきながら、自分自身ではその顔を見ることができない。
鏡を使って確認することはできるが、それは「鏡像(左右が逆転している像)」であり、ほんとうの顔の左右が入れ替わった像に他ならない。試しに鏡像を反転させて「正像」をつって「鏡像」と見くらべてみればよくわかる。[.....]多くの人が自分の「正像」にはどうしても違和感を覚えるだろう。「いつもの自分ではない」と。

それもそのはずだ。普段、見慣れている自分の顔は「鏡像」なのだから。
しかし、他人が見ているあなたは「 「正像」だ。「わたしが知っている自分とちょっと違った顔」を、他人はあなたの顔として識別しているのだ。

“化粧する脳 (集英社新書 486G)” (茂木 健一郎) P.50-51

茂木健一郎先生の著書は同工異曲であっても読む。今回もそう予想して読み始めた。予想は見事にはずれた。良い感じ。どうしてはずれたか。それは、「化粧の本質」にある。先生の研究グループは、2007年7月からカネボウ化粧品と共同で脳科学的な知見から「化粧」を研究してきた。その結果をメンバーのひとりが本書で論文寄稿している。論文寄稿を起点にした論考だからか、同工異曲の濃度が薄いように感じた。

本書の論文で紹介された「化粧」の検証結果を興味深く読んだ。もちろん素人だから脳科学的な意味を理解できなかった。あくまで、自分の周りにある「化粧する女性」を想起して読んだにすぎない。それでもおもしろかった。そんな結果が出たのかと。

「化粧」は記号であって、「化粧された顔」は象徴だ、と僕はまとめた。そして、記号と象徴を信号として他者へ送信する。化粧はコミュニケーション能力の根幹であり、茂木健一郎先生は、コミュニケーション能力を人間の知性の本質と定義した。

化粧を顔にほどこす。顔は他者へ曝す心の窓口。鏡像と正像の差異。それは自分自身で判別できないほどの軽微。顔は常に見られている。私の顔を見る他者の顔を僕は伺う。言語化できないニュアンスを読み取る。他者の顔は私の顔を読み取った結果であり、原因でもある。原因と結果は融合され、いつしか融合すら忘れ、顔から伝達の根本をたぐりよせる。たぐり寄せられれば安心、たぐり寄せられなければ不安。顔は「祝福」であり、同時に「呪い」なのだ。

本書によると、人間の大脳新皮質のうち、約3分の1にあたる部分が視覚にかかわる領域らしい。人間は視覚優位の進化をとげてきた。視覚に依存しすぎているとも考えられる。視覚は「見る」という欲望を生み、顔は「見られる」という欲望を生む。

しかし、僕は顔を見ているだろうか。「見る」という欲望に身をまかせ、視覚に依存する毎日にかまけて、実は見ていない。一体何を見ているのか。否、本質は目には見えない。

顔は美の判定基準に組み込まれれる。エロスのとば口。では美は何か。化粧する顔から先生は美へと論考を深める。顔の美についても興味深い実験結果を提示している。見える美と見えない美の本質。

「化粧」を顔にほどこす行動だけと捉えたら、秘められている意味へ永遠に辿り着けない。なぜなら、「化粧」は顔だけにするものではない。

「化粧」という意味、それは、「言葉を化粧する」と書けば、理解へのスタートラインに立てるかもしれない。

茂木健一郎先生はブレインという名称のヴィークルに僕を乗せ、化粧された「顔」から「共感感覚」と「美」への道を走り、それから「言葉」へハンドルを切り、そして、人間の知性へ案内した。

素敵なドライブだった。

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[Review]: ブランドのデザイン

“シンプル”ということについて原氏は、「シンプルの品質は思考の総量が決める。ただ単純なのではない。同じシンプルでも、考え抜かれたシンプルかどうかが重要」という。幾何学的に簡素であるというだけではなく、それが「多様なイメージを一身に受けとめられる容量の大きな器として機能するかどうか」。優れたシンプルは懐が広い。どんなイメージも受け入れる。それは単に省略するとかデザインしないということとは、全く逆のベクトル上にある。つまり、考え抜いた果てでないと、品質のいいシンプルにたどり着けないということだ。

“ブランドのデザイン (文春文庫)” (川島 蓉子) P.257

「ブランドのデザイン」を知りたくて買ったのではなく、原氏のインタビュー(P.254-257)を手元に置いときたくて購入した。ほんの少しだけ気持ちが安定した。シンプルの意味を誤解していなくてよかった。大きくはずしていなかった。

広告は日常生活に溢れている。目に止めるコピーや素通りされるポスター、何となく気になる形や色、思わず画面を見直すCM、まったく目を引かない雑誌のページなどなど。その中でロングセラーを続ける商品は必ず存在する。

伊右衛門の形は、「日本人の心と手に最もなじむ竹筒のかたち」を象ったものだから、自動販売機に入らず物議を醸した。商品開発が短サイクル化している飲料市場で、4年の歳月をかけて議論されてきた。「ブランドをどう伝えるか」までを戦略に組み込むこと自体が、サントリーでは異例だったとの由。

25年以上売れ続けているサントリーのウーロン茶は競合が登場しても「ほっておくに限る」と構えて自分たちの哲学を洗練させてきた。

キューピーマヨネーズは、「良質で栄養価の高いものを行き渡らせたい」という信念で支えられ、「どんな時代にも変えてはいけないことを守り続け」ながら「どんどん工夫して」いき、進化させてきた。

年間500億円の売上を誇る資生堂の「クレ・ド・ポー ボーテ」は、ただ販売しているだけじゃない。販売の「前後」も含めて「最高品質」を築き上げている。「物事はすべてリッチでなければならない」という初代社長のフレーズが商品に込められ、「世界で通用する」品質を広告で伝える。

日常生活で何気なく手に取る商品や積極的に買う商品。自分の感性に響いたから買う商品や何となく買ってしまった商品。長きにわたって人々の手に渡ってきた商品や世界を変えるような商品には、物語がある。創業者や経営者の人間性が垣間見られる。伝統と革新の両方を持っている。技術が蓄積されている。

だけど、僕はそんな「ブランドの要件」を知り抜いて買っているわけじゃない。広告はそんな僕へ「伝える」役割を果たしている。どうやって伝えるのか、という発狂しかねない激論をくぐって、「メッセージ」は伝えられる。伝え方や表現、言葉、映像、ありとあらゆる送受信の確立を模索する。

今、周りに耳をかざせば、「あたりまえ」のことをレトリックやボディーランゲージでカッコよくまとめて、「さもありなん」とする喧噪が聞こえる。どれももっとも”らしい”ことを言っているにすぎない。思考の総量が少ない。

心に響く広告は、「あたりまえ」をカッコよく語らない。朴訥として、たとえコピーであっても、少しひっかかりながらしゃべっているような、「これがいい」じゃなくて「これでいい」ような意志の強い控え目なふるまいに満ちた言葉で彩られている。

あたりまえのことを自己主張する。簡単だ。だけど、あたりまえの背後に隠れている逆理を「視点」として気づかせるような伝え方。

主張は説得に変わり、いつしか説教となる。気づきは認識へ変わり、いつしか理解へ昇華する。そんなふうに僕は今考え始めた。沈黙していきたい。雄弁に語りたくない。時間と仲好しになって、気づきを待ちたい。

読みながらそうワクワクした。

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[Review]: ひとを<嫌う>ということ

私がこの歳になって心から望むこと、それは夫婦とか親子とか親友とか師弟、さらには知人とか職場の同僚とかの「嫌い」を大切にしてゆきたいということ。そこから逃げずに、嫌うことと嫌われることを重く取りたいということです。どんなに誠心誠意努力しても、嫌われてしまう。どんなに私が好きでも、相手は私を嫌う。逆にどんなに相手が私を好いてくれても、私は彼(女)が嫌いである。これが、嘘偽りない現実なのです。とすれば、それをごまかさずにしっかりと見据えるしかない。それをとことん味わい尽くすしかない。そこで悩み苦しむしかない。そして、そこから人生の重い豊かさを発見するしかないのです。

“ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)” (中島 義道) P.224

著者が中島義道先生、解説は岸本葉子さん、とくれば買い。レジへ直行。「何を言ったかよりも誰が言ったか」に人は注目し、判定する。それを30歳前後で意識するようになった。37歳の今、「何を言ったかよりも誰が言ったか」への理解のとば口にようやく立った。

ここ数年、強く感じる。両者の言い分を抽象化すれば同じ内容を話しているにもかかわらず、聴衆は、片方にYESを与え、片方にNOを突きつける。説明の仕方、声の抑揚、身だしなみ、顔の表情、過去の行動、履歴などなど、「判断」の基準ではない情報を優先的に選択して判定する。僕はそれに気づいていない。「何を言ったかよりも誰が言ったか」を無意識のうちに「基準」にしてしまっている。わかりやすい情報への傾斜。思考停止。

「何を言ったかよりも誰が言ったか」へ意識が向く。その根底に流れるのは、「嫌い」。ひとを<嫌う>ということ。それに向きあっているだろうか。

「嫌い」と向きあわず、「嫌い」を認めず、自分に非がないように否定する。たとえ論理的に正しく導いた結論であっても受け入れない。でも、「嫌い」でない人から説明されれば、納得する。たとえ、論理的に破綻している内容だとしても。

「すべての人は好きになれない」という大前提から出発すること。それが、<嫌い>の始まり。この大前提を受容しているだろうか。否、避けている。ゆえに、各人の微妙な差異、どうしようもない差異を認められない。非難、あるいは均一化を試みる。

大前提から出発すれば、どんなに気の合った他人が厭な点をいくつか持っていても、そのまま記録すればいい。不快を避けず、不快を体験し尽くす。個人間の微妙な差異を非難しない、均一化しない、同化しない。たとえ、蛇蝎の如く嫌う不快であっても、そのまま記録する。

先生は、「嫌い」には概念があり、初段階があり、そして原因があるという。嫌いの原因を探ると、

  1. 相手が自分の期待に応えてくれないこと
  2. 相手が現在あるいは将来自分に危害(損失)を加える恐れがあること
  3. 相手に対する嫉妬
  4. 相手に対する軽蔑
  5. 相手が自分を「軽蔑している」という感じがすること
  6. 相手が自分を「嫌っている」という感じがすること
  7. 相手に対する絶対的無関心
  8. 相手に対する生理的・観念的な拒絶反応

があるらしい。先生は8つの原因を丹念に説明してくれる。事例や過去の人たちが抱いた「嫌い」を引用して「哲学」する。8つの原因を理解できたとき、最後に訪れる<嫌い>が、「自己嫌悪」。徹底的に「嫌い」を考え抜く。「嫌い」を認める。

どうしてこんなにも「嫌い」 を探求するのか? 岸本葉子さんは端的に解説してくれた。

現代日本では、「嫌い」という感情を暴力的に押しつぶすことに余念がなく、そのため「嫌い」を自他のうちに発見したとき、人々は狼狽し、ありとあらゆる仕方で(欺瞞的にも)抹消しようとするような気がします。この本の「はじめに」で著者が示しているように。

“ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)” (中島 義道) P.234 解説より

人々は狼狽しありとあらゆる仕方で抹消した、としても、それは個人の微妙な差異だ。僕はそれをとやかく言える筋合いじゃない。本人はそれで結構だと考え、思い、あるいは何も考えていなくても、それを不快だと記録しよう。

「すべての人は好きになれない」という大前提から先生は出発した。僕は、そこに「すべての事柄に関心を持てない」という認識を付け加えたい。嫌いと無関心を徹底的に追い求める。そして、「嫌いを骨の髄まで実感する豊かさ」を感じ始めるとしよう。

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[Review]: 禅と日本文化

精神の重要さをあまりに注意・強調すれば、形式無視という結果をきたす。「一角」様式と筆触の経済化もまた、慣例的(コンベンショナル)な法則から孤絶するという効果を生ずるのである。普通なら一本の線、一つの塊(マス)、平衡翼(バランシング・ウイング)を予測するところにそれがない、しかもこの事実が予期せざる快感を中心に喚びおこすのである。それらはあきらかに短所や欠陥であるにもかかわらず、そうは感じられない。事実、この不完全そのものが完全の形になる。いうまでもなく、美とはかならずしも形の完全を指していうのではない。この不完全どころか醜というべき形のなかに、美を体現することが日本の美術家の得意の妙技(トリック)の一つである。

“禅と日本文化 (岩波新書)” (鈴木 大拙) P.16

第一章で「禅の予備知識」を述べた後、以下、七章まで

  • 禅と美術
  • 禅と武士
  • 禅と剣道
  • 禅と儒教
  • 禅と茶道
  • 禅と俳句

と続く。すべて、「禅と」の表題。ちぐはぐでわかりにく問答を「禅問答」と私たちは例える。禅の予備知識を読み始めて、そう例える心理に得心がいった。「禅」という概念に接近するとき、「ロジック」が待っている。

弟子が禅のお師匠に問う内容は素朴だ。一般的な疑問もある。それらに対してお師匠は、「論理家」のような答を差し出す。だけどその論理はちっともわかりやすくない。「”分別”それ自体が分別だ」とか。事実は無視され価値が顚倒する。

とにかく煌びやかな逆説に満ちている、と僕は禅に対して感じた。もうひとつ、徹頭徹尾「実践」だと。

理論化(セオリゼーション)は、何かを作るときに便利。だけど、何かを創るとき、すなわち人間の魂を表現するとき、そういうわけにはいかない。それの先端は「正しく生きる術をえんとする」だ。「正しく生きる術をえんとする」なんて、真に「伝え難き」ものであり、いわば、議論を主体とする悟性を超越している。

禅は、「言葉に頼るな」がモットーだ。言葉に頼るな、不立文字。なのに、弟子は言葉で考え、言葉で問わなければならない。このパラドックスから脱出したいなら、「実践」しかない。禅が評価するのは、「実体」のみ。言葉による体系化は、禅にとって必要ない。否、むしろ邪魔だ。

不立文字で実践した結果から得られた真理を、禅のお師匠は「ロジック」で答える。決してセオリーではない。言葉だけで近づいてこようとする弟子を奈落へ突き落とし、行動で近づこうする弟子に混沌を与える。

  • 禅は精神に焦点をおく結果、形式(フォーム)を無視する。
  • すなわち、禅はいかなる種類の形式のなかにも精神の厳存をさぐりあてる。
  • 形式の不十分、不完全なる事によって、精神がいっそう表される。形式の完全は人の注意を形式に向けやすくし、内部の真実そのものに向けがたくするからである。
  • 形式主義、慣例主義、儀礼主義を否定する結果、精神はまったく裸出してきて、その孤絶性、孤独性に還る

禅宗が日本へ伝来して、禅は日本文化と性格の形成にいかなる役割を果たしたのか。仏教(専門的になんと表現するのか知らない)が公家に支持され、禅が武士に支持されてきた歴史の背景を歩き、禅が美術や剣道、俳句に対して与えた影響は何か?

僕は、宗教を知らない。宗教に対して何かを語れるような知識をまったく持っていない。だけど、昔から禅問答だけは興味を持っていた。どうして、禅問答に惹かれたのかいまだにわからない。だけど、一つだけ納得できた。それは、「逆説」と「実践」の根底にある不立文字という意味。その意味に憧れている。だから禅問答に接近した。そして、「禅」を理解したくなった。

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[Review]: 橋本治と内田樹

橋本 そういう意味で、「立ち居振る舞いが美しい」という褒め言葉がひとつありさえすれば、「どうすれば立ち居振る舞いが美しくなれるか」に関するノウハウがなくてもいいんですよね。美しい人がいる。自分は美しくない。恥ずかしい。その恥ずかしいを持続していて、何らかの形で一生かけてでも、その立ち居振る舞いの美しいに近づこうという風に、ぐずぐずぐずぐず努力するというのが人生で、それだけでも人生の目的はあるんですよね。マニュアルにしてしまうと、人生の目的を短縮してしまうから、暇でしょうがないだろうなと思うんですけれど。“橋本治と内田樹” (橋本 治, 内田 樹) P.236

初版は2008年11月25日。内容は2005年春の対談。この「間」は何だろうと考えて読んでいた。出版業界を知らないので、「それぐらいかかりますよ」と言われればそうなのかと頷く。そうでなければ、二人の対談を「編集」するのに、それだけの時間を要したのかなぁと考えたり。読むにつれ、「3年」なら短いほうだな見立てるようになった。対談集を読んで「現場」を観たいとはじめて感じた。両先生の息づかい、呼吸、表情、声のトーン、間、笑い声、言葉の選択、読み取り、贈与…..それら全部を記憶したいぐらい。

「引き算」だと自称する両先生の話はおもしろい。内田樹先生は、桃尻娘以来四半世紀に及ぶ橋本治先生のファン。ジョン・レノンと「デュエット」のアルバムを出させていただいたような気分とまえがきで記している。内田樹先生が質問して橋本治先生が答える形式で対談は進むけど、シンクロするとダイアローグへ変化する。変化していく過程で繰り広げられる言葉のリズムとパブリックな視座、それらを味わいたいから両先生の思考と同じスピードでページをめくらねばと焦る。

冒頭に引用した一文と出会えてほんとうによかった、って僕は喜んだ。なぜなら、先日、ある方に申し上げた意味がこの一文だったから。そう! これが言いたかったんだって。「何らかの形で一生かけてでも、その立ち居振る舞いの美しいに近づことういう風に」している所作自体が美しいと。そう申し上げた。だけど、やっぱりまだそれをすらりと言葉にできない。その思考と発想に近づけない。嬉しいけど悔しい。そんな気持ちが交錯した。

自分がわからない(内田)×他人がわからない(橋本)が「橋本治」と「内田樹」の違いを論じ、抽象概念がわからないと橋本治先生が投げれば内田樹先生が投げ返す。充分に抽象概念の対話だと「うまい観客」になりたい僕がいる。

「引き算の人物造形」に強く頷き、「そう、これがファッションやな」と独りごちながら、「どうしてコミュニケーションを標榜するコンサルタントはこの手の本を読まないのか」とひとり不思議がる。

コミュニケーションを理解したいと考えるなら、ビジネス書を漁ってもダメだ、と僕は考える。ビジネス書は、「普段何気なく使っている言葉」を何気なく使う。だけど、両先生は、「普段何気なく使っている言葉」を辞書で調べて、語源を辿り、使われていた時代まで遡る。失礼かもしれないけれど、「言葉」に対して「ぐずぐずぐずぐず努力」していらっしゃる、と僕は受け止めている。

だから、コミュニケーションに悩む人から相談されると、両先生の本を薦める。だけど、それも今は最低限に留めている。やっぱり、本は人から薦められて読めないし、「読み時」はそれぞれ(そうなるとこのレビューは無駄だなぁ)。「本屋で本が呼んでいる」なんてヤバイ言い回しも仄聞するし体感した。内田樹先生のフレーズを剽窃すると、「だから、読むべきときがまだ来ていない人なのかなって」感じを本は持っている。

内田 僕ね、小林秀雄って実はぜんぜん読んでないんですよ。何冊か読んだはずなんだけれど、一つも記憶に残っていない。だから、読むべきときがまだ来ていない人なのかなって思ってるんですけど。

橋本 小林秀雄どころか、その前後何も読んだことないんですよね。評論つーので読んだのって、山本七平何冊かと、あと何冊か…..。ほかはないですよ。俺はもう、「お話」しか読まない人だから。“橋本治と内田樹” (橋本 治, 内田 樹) P.126

うまく紹介できない。もどかしい。まぁ、とにかくコミュニケーションやスキルに悩む人、読んでみてよってお願いするぐらい。あっ、さっきと話が逆だと怒らないで。そういうもんかなと。人の話って。矛盾しているようでどこかでつながっていて、平仄が合わないのを承知していたりする、実は。そんな人に「矛盾だよ」って注意しても無駄で、むしろ、「あれ、なんでこの矛盾しているような話を平気でしているの。不思議と納得できるし」って受け止めて掘り下げる方が、対話しているっぽい。無駄を認識した上の話として。

最後に爆笑したフレーズ。

橋本 俺ね、二十歳ちょいすぎぐらいの頃、「メルロ・ポンティって知ってる?」って言われて、「知らない、カルロ・ポンティなら知ってる」って答えた(笑)。

内田 ふつうの二十歳の学生はカルロ・ポンティの方を知らないですよ(笑)

“橋本治と内田樹” (橋本 治, 内田 樹) P.117

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[Review]: 歯はいのち!

ここでお断りしておきたのは、現在にでは、本人に不具合の自覚症状があり、整体的アプローチを希望する方に限って、本書で述べたような総合的治療を行っています。当院は保険適用医ですが、この整体的診療の場合は、保険適用外となります。「整体をする歯医者」という特殊な立場で、長年治療してきた経験から、無用なトラブルを避け、理解のある患者さんへの治療に専念するため、そのようにしています。
インプラントや歯科矯正のトラブルを抱えた方には納得のいく金額でしょうが、興味本位でちょっと身体をいじってほしい、という方には高額に感じると思います。“歯はいのち!―気持ちよく噛めて身体が楽になる整体入門 (文春文庫)” (笠茂 享久) P.222

タイトルへ目線が釘付け、あとがきに興味をそそられ購入した。歯に限らず、医療や食の本を読むとき、注意している点はひとつ。神経質にならないこと。知識を蓄えたい。だけど、本の記述について医学的判断を下せない、という前提を忘れてしまうと、都合の良い箇所だけ切り取ってしまう。本末転倒。

とにかくおもしろかった。

  • 歯はクッションの上にのっている
  • 噛み合わせは周囲の筋肉で簡単に変わる
  • 歯科医が整体的視点からアプローチするわけ
  • アングロサクソンと日本人の噛み合わせ
  • 全身のバランスのなかで調和を図る
  • 二足歩行は高度な動きでそれに合わせた口腔内
  • 口のねじれと内臓の関係
  • 腹圧の調整
  • 噛む力と学習効果

ひねくれた見方をしてしまって申し訳ないけど、上手な営業だなと感心した。冒頭の引用文はあとがきに記されている。それまで、

  1. 理論と研究結果を紹介
  2. 1.から「噛む」がいかに大事かを説明
  3. 「噛む」には全身の調整が必要

と、典型的なマーケティングの

  • 理論(疑似じゃないよとアピール)
  • 専門分野の優位性を説得(“比較”の論法を駆使)
  • 自分でできるメソッドを掲載(“無料おためし期間”を設ける)

本を読んで試しに自分でやってみて、「自分の身体への関心」スイッチをオンにさせる。ずっと続けられる人は少ないだろうけど、少なくとも「興味」を抱く。それじゃ、一度先生に診てもらおうか、と「行動」の回路をつくってあげる。

だけど、「ちょっとだけ関心を持った」人を選別しなければならない。無礼な書き方をすれば、効率が悪い。本を読んで我も我もと駆け込んでもらっては困るから、あとがきで釘を刺しておく。文庫版あとがきにはもっと踏み込んで宣言している。

ちなみにぼくはいまのところ三大メソッドを続けられている。三日坊主はまぬがれた。だけど、いつまで続くやら。

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