書くことはツライ

昨年後半あたりからどうも書けない。ジャンクを書いて凌いでいる。自分の気持ちにさからってムリヤリ書いている。まぁ、「それなりにやってますよ」と発信するツールであったりするから。机の隣に置いてあるプラスチックのA4ボックスをのぞくと、レビュー待ちの書籍が放り込んである。ざっと数えたところ40冊を越えていた。

今も手にとってパラパラめくりながら何か書こうかなぁと思ったけど、やっぱりうまく書けない。ボックスにもどした。

どうして書けないかを掌握できれば苦労しない。言葉にできない。ただ、レビューは言葉を出力するよりテンプレートにそった方が書きやすい。テンプレートを持っていない。そのあたりテクニカルの問題も含んでいるかな。

結局、「考えているようで実は何も考えていない」なんて古典的なオチだったり。要は「考える仕方」を忘れているとでも。

ここ数日にわたる侃々諤々の光市母子殺害事件後期高齢者医療制度にも言及したいなとチラっとよぎる。明日はJR福知山線脱線事故。でも書けない。まとまらない。単語を並べるけど文章にできず。なにより関心の濃度が薄くなってきた。無関心じゃない。事件や事故そのものに自分をフォーカスするよりも、少し距離を置いた視点から眺めてみたい。「事件」や「事故」という集合とは違う集合からギリギリで交わろうとするような感じ。かろうじて裏ブログで愚痴を書き綴って「事件」や「事故」の集合のなかにいようとするぐらいか。「中の人なんていません」ってツッコまれそうだけど。

独白のつもりで書いているから気楽に構えればいい。げんに気楽だ。なのに書かなければなんて義務に近い感情が石のように動かず居座っている。頭にも身体にも。書くのは苦行だな。なのにやめない。やめれない。サルのセンズリみたい。

書くことはツライ。

どうしてだろう。「書く自分」と「書けない自分」を私は知っている。スラスラ書ける日、訥々と語るように書く文章。と意気揚々が続けば書けない日々。両者を知っている私はその差異に目をむける。すると猛烈な嫌悪感に襲われる。

もっと上手に書きたい。もっと理路整然と書きたい。もっと読者に理解してもらえるように書きたい。もっと自分の言葉で書きたい。他者に伝えたい欲望と言葉の檻から抜け出したい焦燥。檻から抜け出させるはずなんてないのに。言葉は私の主人。それでも言葉の向う側を知りたい。

自分の言葉で他者に伝える。だけど自分の言葉に拘泥すると自分探しの陥穽が待っている。書くことはツライ。それは言葉に幽閉されている自分と向きあうから。