批判が社会を喰い尽くすにコメントをいただいたので一読して吃驚した。私ごときでは回答できない問題提起。ただただありがたいなぁと感謝。少しずつ少しずつ自分で考えているので、コメントされた方が注釈している『意味に餓える社会』を知らなかった。管理人さんの問題提起でまたひとつ考えることがふえた。それがとてもうれしい。答えは何年先になるか。辿り着けないかも。どうなるか何もわからない。
管理人さんは慶應義塾大学に在学とのこと。ステキなテキストを書くなぁと感じ入った。私からすればはるか高度な文章を書いていらっしゃる("はるか"もおかしいな、どうも形容詞がしっくりこない)。管理人さんの知性は、この先もいかなる言葉を紡ぐのかとワクワクしてしまう。
次の文章に震えた。
情報交換や情報収集に希望が無いとすれば、次に考え得るのは意見交換や議論です。しかし、インターネットに専門家に対する非専門家、知識人に対する大衆(?)が包摂されている以上、自分自身が望むような水準(レベル)で意見交換や議論を展開していくことは、困難極まりありません。
何故か。<複雑高度>な寄与を、<単純>化することで、<万人共通>の事柄として取り扱うことが、不可能だからです。複雑高度な現象を語るには、素人や非専門家に退場して貰う必要があります。単純な話し合いで事を済ませたいのであれば、専門家や知識人に黙って貰わなければなりません。万人共通で標準化したいのであれば、複雑にも単純にも偏っては駄目です。
via: 「無駄話」としてのブログを。 - ポスト・ヒューマンの生命デザイン
今回の問題提起は<複雑高度な現象>だから素人の私は退場しなくちゃならない。私と管理人さんとの間にあるのは能力と現象の差異。いや、差異は失礼。能力の落差であり高低だ。ひとつひとつの単語の意味は理解できる。でも単語と単語とつなげる文章になると暗闇に入り、ましてや段落になると世界もなくなる。でもそれが他者なんだとうれしくなる。他者がもたらす「わからない」にふれたとき私が目覚める。
レヴィナスの「境界を接していない」という物言い、そして、<他者>の異邦性とは<他者>を<自我>、私の思考、私の所有物に還元することの不可能であり、それゆえ<他者>の異邦性はほかでもない私の自発性の審問として、倫理として成就されるとは、今回のような経験を指すのかも、とひょっとしたら一割ぐらい理解できたりしてとほくそ笑んだ。
管理人さんという他者から他の私がやってきた。他の私が私を突き刺したとき、私をながめる。でも、その私を眺める私は?
タマネギの薄皮をはぐように一枚一枚をはぐ。無限がぱっくり口をひらいている。いつか皮はなくなるはずなのに。でも、その私すらも「わたしが生きていようといまいと、<わたしはある>は意味作用をおこなう」私じゃない。
今の私はやっぱりヒトから目が離せない。