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共食

2011.01.16 雪

小寒第六十九候、雉始雊。食用でもある。食べたことはない。白い雉は祥瑞として献上された。食べると食べないに線を引く。何が境目を挿入するんだろう。夕方あたりから雪が積もった。みるみるうちに。年末と元日より積もった感じ。夜空は黒にあらず。白っぽい。奇妙な明るさ。寝る前に10分ぐらい眺める。ファンタジーな景色。

午前中は読書。午後からおでんとカレーをつくる。フライパンにガーリック系のオリーブオイルをひいてから刻んだショウガで香りをつける。みじん切りの玉葱が飴色になるまで炒める。弱火。40分以上炒めたら最初の半分ぐらいになる。おもしろい。玉葱をボウルに移して粗熱をとる。鶏肉の手羽元を炒める(先週は鳥のもも肉だった)。ジャガイモとニンジンは大きめにカット。今回は占地を入れてみた。

ルーから作りたい。そこまで酔狂ではない。市販のルーとカレーの壺をブレンドして煮込む。コトコト。おでんも煮込む。カレーと出汁の香りが鼻腔をくすぐる。幸せ。

『ひとりでは生きられないのも芸のうち』 内田 樹 の「教育」には「贈与」が頻繁に使われる。先生のブログ、先日のエントリー「コピペはダメだよ、について」にも「贈与」と「反対給付」が出てきた。それが気になって書架から 『贈与論』 マルセル モース を取り出し再読している。カレーを作りながら読む。

僕は贈り物をしたり馳走すると、時折よぎる(逆でもよぎる)。「返礼なき贈与はそれを受け取った者を貶める」(同P.260) というモースの言葉。内田樹先生のブログで「贈与」「給付」「反対給付」と検索すれば、「贈与の負債と義務と霊魂(オカルトではない)」の意味が同工異曲で現れる。

料理を少し覚えてたしなむようになって新しい発見。食事の時間が気になっている。自分の食事の時間は短い。早食いは体によくない、の短いじゃない。食事の「時間」を味わっていない。100分ぐらいかけて作ったカレーを15分ほどでパクパク食べてしまう。料理という贈り物に対して反対給付の義務を自覚していない。そう思い始めた。奥様が作ってくれた料理に対して負債と思っていない。ましてや自分が作ったらいわずもがな。

20代後半から30代前半の僕は無意識のうちに思っていた。食費の家計を支えているんだから交換だよなって。時間=金、金=食事という図式が頭の中にあった。「働かざる者食うべからずは低級で危険な現実」 (『君の夢 僕の思考 You will dream while I think』 森 博嗣) を地で行っていたし、時間を甘く見ていた (『すベてがFになる』 森 博嗣)。笑う数学者の意味 を理解していなかった。

いまは少し違う。ゆっくり食べる日をつくる。週末の二日間。毎日できっこない。食べ終わった後も奥様と話をして食器を洗い、ゆっくり後片づけする。それでも60分ぐらいが限度かな。よくて90分か。

僕が作った料理でも贈与かもね。少し前の自分がいまの自分へ「時間」を贈与した。それを受けた僕は反対給付の義務を負う。何を返礼するのか。一人ではできない。

共食(造語かな?)なんだなと思う。文化が異なる国では、3、4時間かけて食べると聞く。実態を知らない。自分の目で確かめていない。フィクションかもしれない。もし本当なら共食を想像する。

二つを食べる。一つは料理であり一つは時間。差し出された物を食べながら時間を食べる。他者と物語を物語り、物を味わい、物を片付ける。それらを共にする。同時に食べ始めて同時に食べ終わる。リズム。一連の動作はシンクロしてゆく。特定のリズムを奏でられたらそれが家族の儀礼である。食前の祈りもその一つかなと思う。

たとえ二人でも一人が先に食べ始めたり食べ終えたり、あるいはテレビを視たり、勝手が生まれれば個食だ。孤食とも云う。それが三人、四人であっても同じ。無人島に一人でいるだけが孤立でないように大勢の中にいても孤立している。

家族から敷衍する。同僚や仲間、知人、他者と共食する。同時に食べ始めて同時に終わる。他者とともに時間を食べるとは、差し出された料理に対して記憶と価値を返礼することだと僕は思う。