ジェイアール京都伊勢丹へゆく。「浴衣がほしい!」というパートナーの鶴の一声に従わざるを得ない。後塵を拝す。おまけにただいま浴衣SALEらしい。物欲と供給がみごとに一致した例といえよう。が、そうは問屋が卸さない。「SALE」というものがSALEで終わる買い物を私は寡聞にて知らない。過去の経験をひもとけば推して知るべし。「SALE」の札が掲げてある生地をさわれば「ああ、なるほどね」とうなづける。そしてそのなかから「あら、これは」というものを手にできたとき、私は掘り出し物とよぶ。車中、それとなく予算を聞く。金額を耳にしてププッと横を向く。あとは電車の揺れにまかせた。
9Fに到着。昨年、私が浴衣を購入した売り場と同じだった。さっそく手当たり次第に浴衣をめくっていく。もちろん「SALE」からだ。横目でチラチラ観察すること数十分。意気揚々だったはじめにくらべなにやら雲行きがあやしい。表情が険しくなる。ふたたびププッと横を向く。とはいえ「掘り出し物」を獲得しようとする経済感覚に心中感謝する。それがなければ我が家計ははるかむかしに崩壊していたであろう。さておき、そんな二人の姿に見かねたのか、年齢不詳の細面な女性店員がさっそうと我々の眼前に現れてくれた。
ところで私は好き嫌いを峻別するという宿痾をもつ。治せないものは仕方がない。が、問題はなぜ好悪があるのかということではなく、「好悪させるものは何か」ということだ。クリアカットに説明できない「雰囲気」がある。例えば、ある二人の店員さんが「同じせりふ、同じしぐさ」をしたとする。なのに片方に「アレ?」と首をかしげる場面に遭遇する。見た目ではない。これが今の私にとって最大の関心事だ。大部分が私の主観だ。それを今は捨象したい。
私を好悪させるふるまいと他人を好悪させるふるまいが一致しないとき、それは私だけが感じるものであり、「好悪のなかの好悪」だ。わがままともいい、無理難題ともいう。そんな私の難癖に耳を傾ける必要はまったくない。そうではなく、(好悪させるふるまいが)一致した場合、かつ、そのふるまいを理路整然と説明できないとき、そこに宿る「空気」は一体何なのか。それが頭から離れない。
ずいぶん話がそれた。もとへ戻す。さてこの女性店員の方。結論から先に述べるとすさまじく「恐ろしかった」。もとい、適切でない。優秀というのか。一騎当千を彷彿させるビヘイビア。
まず「どのようなものをお好みですか」と尋ねてきた。それをイメージできればもう手にしているな、と心中ささやく。その心中を察するがごとくいきなりどこかへと姿を消す。数分後、鮮やかな藍色の浴衣を手に持ってやってきた。二人の第一印象は「?」だ。そこからパートナーや私が好む浴衣を指さしては売り場を徘徊する。店員さんとのやりとりを横で観察していた私はふと気づいた。
この店員さんは「試着されますか」を使い分けている。どういうことか。私たちが指さす浴衣すべてに「試着されますか」と声をかけない。店員さんの目線で「合っている」と感じる浴衣にだけ「試着されますか」と声をかける。ああ、「“目”かなぁ」とひとりごちる。
いくつか試着する。試着するたびに「どうですか、想像どおりでしたか?」と尋ねてくる。そこで衝撃を目の当たりにする。パートナーが選んだ浴衣はことごとくしりぞけられ、最初の「?」が残った。弁解するとどれもおかしくない。正直、どれでもよいと私は思った。しかし、どれでもよいと思うなかから「?」が残ったのには理由がある。思い過ごしかもしれない。何か。「客観的に似合っている」という立ち姿だ。パートナーの主観ではなく周囲の客観。事実、フェイスをふくめた全身がいちばんはえる浴衣だったので驚いた。
話半分として大げさだ。でも確かにあると私は断じる。私が洋服やスーツを選ぶ基準がそうだから余計に感じたのだろう。“そう”とは、客観的に似合っているかどうかで選ぶということだ。似合っていると「私だけ」が思うシロモノを私は選ばない。昨年、浴衣を買ったとき、色は黒とだけ告げていくつか見繕ってもらった。他も同じ。よほど欲しい洋服やスーツをのぞけばこのやり方で買う。それじゃぁ、「法外な商品をすすめられるだろう」と言われる。たしかにある。実際に痛い目にもあった。しかし、それは私の「眼」がくもっていたとあきらめる。すると不思議なもので「法外な商品」と出会う機会がめっきり減った。このあたりのからくりはうまく伝えられない。とにかく「わたしになら似合うだろうとあなたが感じるものを見繕ってほしい」とウルウルした瞳で訴えればそれなりに応えていただける。
続いて帯や下駄、小物。ここでも異能がいかんなく発揮される。先と同様、私たちが指さすものをひとつも否定しない。絶対といってもよいほど否定しない。「そうですね」とにこやかに微笑む。しかし、「履いてみられますか」と尋ねない。私たちと一致した下駄、もしくは自分が選んだものだけに「履いてみられますか」と尋ねる。
とくに帯をすすめる様子は圧巻だった。色合わせが抜群なのだ。そして鳥肌がたったのはプライス。たいてい二種類もってくる。それらのうちことごとく片方は「そこそこ」で、もう片方は「のけぞる」なのだ。もちろんのけぞるような価格の価値観は十人十色だ。たとえば、数万円の帯や下駄で仰け反れば、「へぇ、あっ、そう」と平然としているかもしれない。
この「そこそこ」と「のけぞる」の両方をお客の眼前に差し出す段取りは、研修や販売講習で学んだテクニックなのかもしれない。それらの仕草を「いかにも」と思わせないところに感嘆する。
「高いからいいものだ」ではなく、「いいものだからのけぞる」だ。別に「安いものが粗悪だ」ではなく、「千差万別でないからそこそこだ」と言いたげなふるまい。そこに嫌みがない。「売りたい欲望」と「着てほしい願望」のバランスがとれいている。いささかも崩れていない。このバランスが少しでも崩れたとき(売りたい欲望が着てほしい願望を上回っていると感じたとき)、私は「しまった損した」とか「満足できないな」と他罰的に自分を慰撫する。
結局、横から私が「SALE目当てやったのにSALEでのうなったのぉ」と声をかけて3人で苦笑した。だから小物だけ「SALE」を選ばせてもらった。そしてIカードで精算しているパートナーの絶句した横顔が印象にのこった。もうはるか昔に忘れてしまって私にはできない表情。その表情さえ残っていれば、大切にして末永く着てもらえるだろうといとほがらかにうち笑ふ。