鳩山法務大臣が25日の記者会見(福田内閣での留任が報じられる前)で、 「大臣に責任を押っかぶせるような形ではなく執行の規定が自動的に進むような方法がないのかと思う」という趣旨の発言をした。もう自分の留任はないとふんでの放言かどうかわからない。やや失望した。大臣というのは「個人」なのだろうか。私は一市井の人なので法学や行政など専門的知識は皆無。皮膚感覚の愚かな物言いで申し訳ないけど、大臣を機関だと認識している。「刑罰のなかで死刑だけが法務大臣の命令によって執行される」根幹を毀損しかねない発言だと受けとめた。
死刑制度について賛否を問われたとき、「賛否」の二項にとまどいながらも、いまの私は存続に手をあげる。今後どうなるかわからない。ただし、手をあげるとき、以下二点に逡巡する。
- 死刑を執行する方々
- 冤罪の可能性が残る死刑囚
(言い訳がましく何度も書くけど)法学や行政、それらに関連する知識は皆無。単純に「現場」はどうなのだろうという疑問が残る。ふだんから何事にも現場を大切にしたい皮膚感覚だけの愚問。
愚問1.について、死刑執行の任に当たった元刑務官が「死刑の現場」と(元刑務官という立場から)踏み込んで死刑について書いたのが 『元刑務官が明かす死刑のすべて』 だ。
当たり前のことだが、死刑は死んではじめて刑の執行が完了する。どんな状況にあっても絞首して殺さなければ死刑にならないのだ。
暴れようが、気を失おうが、なんとしてでも踏み板の上に立たせ、首にロープを掛けなければならない。
死刑囚の集団処遇はなくなり、刑執行の事前告知もなくなった。もちろん家族らとの面会も取り止められている。
現在の死刑執行は「超極秘事項」扱いなのである。
処刑後、遺族になってしまった家族に通知する。
「本日刑が執行されました。遺体をお引き取りに来所をお願いいたします」
死刑の執行は検察庁の上申に基づき、法務省内部で検討され、法務大臣に決裁を仰がれる。関係部局に回議する起案文書に押される印鑑の数は三十をくだらない。一人の死刑囚には、死刑を求刑した検事、死刑の判決を下した裁判官、死刑の執行命令起案書に印鑑を連ねた官僚と大臣…..数えれば百人を超えるそうだ。その彼らも死刑執行の現場にはいない。
著者は死刑が執行される刑場を描き出す。
- 暗い地下室
- 凍えるような冷たい動かない空気
- 人目をはばかり、秘密のうちに運び込まれる白木の棺
- 異常な白さが目立つ太いナイロンのロープ
- 正装した刑務官の白い手袋
- 牧師の法衣
- 聖マリアの絵画と十字架のキリスト像
- 泣き叫ぶ死刑囚の声
- 死の台に移動する衣擦れ
- 絶叫と轟音
- 飛び散る体液
- 宙にぶら下がる断末魔の肉体
- 死亡が確認されてからストレッチャーの上に寝かされる遺体
- 検事の検視
- 遺体の清浄
- 納棺
- 献花
- 遺体安置所場への搬出
- 棺前教誨(所長以下幹部、舎房担当など関係者を集めて霊をとむらう塀の中の葬儀)
死刑囚舎房を担当する刑務官にとって、死刑囚は息づかいも聞こえるほど身近に存在する。「死刑制度をどう思うか?」と尋ねられたら筆者は「うまく答えられない」という。だからだろうか、何度も読まないと筆者の文章をのみ込めない場面がしばしあった。想像するに、筆をスラスラ動かして書いた文章ではなく、書いてはためらい、その都度、死刑事件の被告人、真犯人である死刑囚、冤罪の疑いの濃い死刑囚の面々を思い浮かべていたのだろう。
何度も読まないとのみ込めない文章は、まさに「現場」を語る。しかし、私はその現場に無頓着だ。毎日報道される殺人事件。日常化したそれを眺める私の感覚は麻痺してきた。「死刑判決」の瞬間、忘却は始まる。事件を忘却し、ややもすると、「私たちが死刑を執行している」という事実も忘れる。しかし、「現場」はそこからはじまる。代理の刑務官に「すべて」を課している。
「すべて」を課した私の責任をどう受けとめればいいのか、それがまだ今の私にはわからない。