ネガティブキャンペーン

押しつけてくるもの、つまり圧力を伴う情報さえ排除すれば良い。必要なものは自分から取りにいけば良いのだ。向こうから入ってこようとするものに、ろくなものはない。

『εに誓って』(講談社ノベルス) P.66

一昨日、郵便受けに自民党の小冊子が入っていた。紺色の表紙。タイトルを覚えていない。全体の色使いが暗く、テーブルへ置くのも憚る。おどろおどろしい。すでに期日前投票をすませたので、小冊子は無価値だったけど、パラパラめくった。民主党のマニフェストを痛烈に批判していた。首をかしげた。(自民党が考える)民主党の政策の誤りを訴えたいはずなのに、なぜ誰も手に取りたがらないようなデザインか? どうしても読んでほしいなら、みんなが手に取りたくなるような、じっくり読めるデザインを選択するはずだ。

以前、日本のCMは比較広告を採用しない、あるいは採用したがらない、外国と比べて少ない、というデータを読んだ。出所は忘れた。アップルの米国版CMを視聴したら、内容はけっこう過激。MSと比べてMacは優れていますよとコミカルに表現していた。じゃぁ、どうして日本のCMは比較広告を採用しないのか? なにやら国民が嫌いだ、という理由だった。ように記憶している。

今、自民党がネットや小冊子を使って展開するネガティブキャンペーンを国民はどう受け止めているのだろう? ぼくは、ネガティブキャンペーンを否定しない。政治は生き残りをかけた闘いであり、どんな手段を使っても勝たなければならない、と定義するならキャンペーンは是だと思う。

もしネガティブキャンペーンを展開するなら要望はひとつ。ネガティブキャンペーンは内容よりも状態に注視される、と自民党は認識すべきだ。自民党が極めて劣勢と報道されている「状態」でキャンペーンを展開すれば、人は展開される言葉へ耳を傾けない。むしろ、悪あがきと受け止める人が増えると思う。下品。余裕のない人が訴える、と査定しない。狂態である。

ある事物を評価する自分を観察したとき、事物の背後に隠れた雰囲気を察知している。ぼくの専門分野ならそんなことをしないけど、専門分野以外、となると、おおむね「大抵」の場合、言葉にできるより多くのことを知る。それから言葉を吟味する。

自民党のネガティブキャンペーンは検討に値する内容であり、マイナスの印象をあなたへ与えたくない、と想定したいなら、国民の多数が、「なんだかよくわからないけど自民党の足腰はやっぱりしっかりしている」みたいな感じ抱く時を狙って、理路を提示しなければならない。自民党はその機を失った。絶頂の時に最悪の事態へ備えるはずが、資金が枯渇してから資金繰りへ奔走しはじめた。

人は過去と現在を比較する。比較した結果、安定の状態と認識できれば、躰の反応は低下し、言葉を理解する精度は向上する。反対に、なんだかよくわからないけど自分に不利な状況だと察知したら、躰は反応する。言葉を理解する精度を低下させ、五感の感度をあげる。

「人は空気で動く」とあなどっていたのに、今さら、「言葉」で説得しようとしても狼少年である。狼少年の言葉に耳を傾けないし、なんなら味方すれば徹底的に叩かれる雰囲気がある。うまく言葉にできないけど、アッという間に一方向へなだれ込む全体をぼくの躰はいやだなと反応する。