創発を知らない組織の散発

紫陽花

われわれの道徳や生活の大部分は、いつでも義務と自由とが入り交じった贈与の雰囲気そのものの中に留まっている。幸運にも今はまだ、すべてが売買という観点から評価されているわけではない。金銭面での価値しか持たない物も存在するが、物には金銭的価値に加えて感情的価値がある。われわれは商業上の道徳だけを持っているわけではないのである。いまだ過去の風俗を持ち続ける人々や階級が残っているし、われわれのほとんどは一年のある時期もしくはある機会に過去の習慣に従う。

『贈与論 (ちくま学芸文庫)』 マルセル モース P.260

4年前に『知識資本主義』 レスター・C・サローレビューを書いた。あれから何度か読み返している。寝酒がわり。知識資本主義は知的所有権を知識と定義した。初版から5年、「知識」は、高度な知識と消費的情報へと分化してきたような感触を得ている。

先日、購入した『デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方』 奥出 直人 に「知識がコモディティ化する」とあった。

経営において利益あるいは利潤を生みだすものとされていた技術や知識が、もはや利益を維持するための切り札にはならないということなのだ。知識や技術や先進国や先端を走る企業が特権的に所有するものではなくなってしまった。インターネットを介して知識は瞬時に世界に広がり、技術者は自在に飛行機でどこにでも移動できるようになった。知識がコモディティになったのだ。

『デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方』 奥出 直人 P.17

引用文の知識は広義の意味と、ぼくは解釈した。消費的情報に近い。技術もしかり。特定の分野の知識や技術はコモディティ化されていない。医療の知識は昔と比べてアクセスしやすくなったけど、それらは消費的情報や”あるある”とか健康情報、ややもすると疑似科学であって、GoogleやWikipediaで検索しやすくなったから。高度な知識をコンパイルして素人が理解できるほど医療の知識はコモディティ化されていない。

では、どんな知識がコモディティになったのだろう? 羽生さんは、こんなことを述べている

「将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということだと思います。でも、その高速道路を走り切ったところで大渋滞が起きています」

via: インターネットの普及がもたらした学習の高速道路と大渋滞:梅田望夫・英語で読むITトレンド – CNET Japan

高速道路を走り切ったところで大渋滞が起きている。その光景を目の当たりにして危機感が醸成される。危機感は二つ。

  1. 後進は、高速道路に乗って想定外の速度で追いついてくる
  2. 後進が、大渋滞に捕まっている間に自分は距離を稼がねばならない

知識のコモディティ化は、危機感を抱く人を創発へと誘導した。だからデザイン思考が注目されている。知識の多寡だけでは開発できない製品やサービス。商売のやりかた。創発は、視点と発想、そして哲学が求められる。フィールドワークとフィードバック。

コモディティ化を認識できない業界

不思議な分野が存在する。第三者は、コモディティ化が進行中と観察するけど、内部の人は、高度な知識、つまりコモディティ化していない、と判断している業界。ぼくの身近な業界では、会計と財務。なるほど税法は高度な知識と仕訳できる。ただし、税法でも限られた分野にすぎない。

それに対して会計と財務は違う。書店へ行けば、10年前に比べて本の量が増えた。ネットでも検索すればカンタンにアクセスできる。使う単語は難しいけど、概念と体系を読み解ければ単語を理解していなくても理解できる。自分の身近な例へ置換しやすい。自分の生活をB/SとP/Lで記述すればよい。

ぼくのクライアントから伺った範囲で評価すると、会計業界が提供するサービスと先生方が求めるニーズがかみ合っていない。知識のコモディティ化を認識した事務所は、新しいサービスを開発して新規顧客を獲得している。他方、認識できない事業所は旧態依然だ。新規顧客が増えない。消費的情報になりつつある知識をまだ高度だと誤解している。

先生(=独占)という呪縛から逃れられるか?

ぼくは先生と呼ばれた経験がないので、その立場から推察する。会計業界は建前とはいえ独占。実体は、「申告」が独占にすぎない。それ以外は、コンサルタントというラベルの異業種が参入している。美味いめしを作るセンスと味覚を持っているけど、調理師の資格を持っていないからおっぴらにできない。

体裁をとりつくろうため先生と提携や共同作業しているけど、名義借りしているようなもの。異業種の人たちと会ったら、「なぜ”先生”よりユニークなアイデアを提案するんだろう?」って疑問を抱く。不思議。ではない。申告という独占、先生という呪縛が解けた「何だかよくわからないけど”先生”とよばれる」先生だから発想できる視点。もちろん、(会計業界の)先生は危ない橋をわたれないし、申告が収入の糧だから疎かにできない。その前提を崩せない。

だけど、呪縛から逃れられるか? その覚悟が求められている。政治家を先生と呼ぶ時の声のトーンから歯や命を救う医師を先生と呼ぶ時のトーンへ顧客を変えられるかどうか。

一度、第三者からみそくそにののしられたほうが、「発想」を獲得できる、とぼくは考える。