実践とは、各人が身を以てする決断と選択をとおして、隠された現実の諸相を引き出すことなのである。そのことによって、理論が、現実からの挑戦を受けて鍛えられ、飛躍するのである。実践が理論の源泉であるというのは、そのような意味で考えられるべきなのである。
決断と選択なき実践を実践している人。地層のように重ねた言葉。思惟。視座。決断していると錯覚する人。選択していると誤解する人。安定は地上の楽園。
実践はまた、すぐれて場所的、時間的なものである。わわれが各自、身を以てする実践は、真空のなかのような抽象的なところでおこなわれるのではなく、ある限定された場所において、限定された時間のなかでおこなわれるからである。まず、場所のなかでおこなわれるということは、実践が空間的、意味的な限定を受けているということである。先に述べた決断や選択にしても、それらがまったく自由に、なんら拘束されずにおこなわれるわけではない。現実との接点を選び、現実を拓くのである。その上にさらに、時間的な限定を加えれば、実践は、歴史性をもった社会や地域のなかでのわれわれ人間の、現実との凝縮された出会いの行為だということになる。
そうだったんだ、カフェはすぐれて場所的、時間的だ。限定された場所、限定された空間。意味は限定される。限定が人を拘束し、自由を認識させる。語りを表出させる。カフェは現実の接点を選び、現実を拓く。カフェは地を描き出し、欲望を取り交わし、日常の諸相を浮き彫りにする。
試行錯誤と継続という時間をカフェへインストールしよう。時間によって、カフェのOSを絶え間なく書き換えよう。バージョンアップとグレードダウン、そんなの気にしない。
そうすれば、あなたたちの足元にある地域は顔をひょっこり出す。認識。
カフェは個別性と偶有性をあなたたちへ贈与してくれる。
カフェから成功と失敗を排除しよう。成功と失敗なんて基準だ。観念でカフェをしない。call a spade a spadeでいこう。
揺らごう。
カフェは出会いの行為。一回性。だけど出会わなければならないなんてあたりまえだ。そのもっと前があるんだ。その「前」がある。
[ad#ad-1]