八〇%のシェアを得た頃、私は各工場の大学卒の技術者を一週間缶詰にして、経営に勉強してもらったことがあります。バランスシートや売上げと在庫の関係、増産による利益などについて、技術者は部分的には勉強しているけれども、それがどういう結果を生じているかということまでは知らない。しかし、生産企業で働いているからには、それがわからなかったら仕事ができない、とういのが私の建前なんです。
“経営に終わりはない” 藤沢 武夫 P.90
「私の建前」、素敵な言葉だなと思う。本音を知る由もない。推し量るしかない。万物流転の法則を話し合い、栄枯盛衰の掟を学ばせたかったのか。
- 自分たちが何をしてきたか
- それがどういう効果を現したか
- よその企業の技術者は何を考えているのか
- 周囲を見わたして、自分はどうあるべきか
それを考えるために、経営の勉強をする。でも、「経営」という言葉は全体を想起させ、微妙な反応をもたらす。それも道理。個人にも経営は存在する。想像力と計算と思考。
この4つが、経営用語のPDCAだけど、「何をして効果はどう現れたのか」を考える機会を持っていない。人が集まって議論するほとんどがこの4つに集約される、と僕は思う。
おそろしいほどシンプルな問いなのに、それゆえ自ら複雑にしてしまって立ち往生する。
逆、だ。効率的に運用したいため、あるいは、効果的に改善したいために、「やること」を増やす。ほんとうは減らす。「やらなくてよいこと」は何か。4つを徹底的に考えるために減らす。時間を生み出す。空間を作る。空間はひとつだけじゃない。バーチャルにも創出できる。
熱意を持って絵空事を語る。たとえば(と書いた事例のほとんどはくだらないけど)自分たちの水準が向上しないのは、政治が悪いと口にする。あんなものに金を使うなら…と憤る。熱意を持って。熱意が語るすべては自分でコントロールできない外部の事柄。周りを沈黙させる熱意。
この場では、技術者たちにお金というものを教えたつもりです。技術者がほかの従業員にお金の説明ができるような企業体にしたいということです。お前が働いている仕事がいったいいくらになるか、こういう方法に変えるとどのくらいコストが安くなるかというようなことを、第一線に働いている人たちにわからせるようにしたい。そのためには技術者自身に説明できる知識が必要です。
“経営に終わりはない” 藤沢 武夫 P.90
倒産の危機に瀕したとき、何を決断するか。表舞台に登場できない影もあったはず。それらも含めて、情熱で語るすべては、自分でコントロールできる事象。何を制御でき、何をすべきでないか。あれもこれもではない。
有名な言葉。徹底的に問いかける「なぜ?」
「○○だからできません」
「なぜ?」
「××だからできません」
「なぜ?」
「△△だからできません?
「なぜ?」
「…..」
「それが解決できたらここは変わるよ」
微笑みながら去ってゆく。
他人の多数の視点を求めず、自分の中から多数の視点を生み出す。
それができる人たちの対話はすこぶるおもしろい。
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