共同化された錯誤

人格転移の殺人 (講談社文庫)

「これは、人間の自己存在とは何であるか、という根源的問題でもあるのだよ」

「要するに、相対的なものだ、とおっしゃりたいのですか」

「よく判っておるじゃないか。そうだ。例えばきみが、デイヴ・ウイルスンであるという根拠はどこにあるか? それはだな、きみと、そしてきみを取り巻く人間たちが、この人物は確かにデイヴ・ウイルスンであるとする相互認識によって、だ。その共同化された”錯誤 “によってしか、きみという人間は存在できない。もちろん、きみだけではない。人間というものはみんなそうだ」

『人格転移の殺人』 P.333

ザ・インターネット(The Net)のワンシーンが頭によぎった。主人公のAngela Bennett (Sandra Bullock)が、電話で自分の名前を口にしたら、「では、Angela Bennettにつなぎます」と電話口から聞こえてきて、驚愕するシーン。「私がAngela Bennettよ!」と叫んでも無駄。位相は異なるけれど、そのシーンと共同化された錯誤が、なんとなくつながった。錯誤という単語をすごく気に入った。

周りの人たちが僕を確認するとき、「A」と認識する人がいれば、「B」と認識する人もいる。この場合のAやBは外見ではなく、人格の意味(あるいはそれに近いモノ)。さらにある人は「C」だと認識している(らしい)。A,B,C…..の上位には、ほんとうの人格(うーん、何と表現してよいのなら)がおそらく存在する、と推測する。けど、それは自分で認知できない(と考えている)。よくわからない。

僕と「僕=A」と認識している人が会う。それは困らない。だけど、僕と「僕=A」「僕=B」「僕=C」と認識している人たちが一堂に会すると困った事態に陥る。「アレ、そんな人だったの」と受け止められるから。嫌われたらどうしようなんて思わないから、どう受け止められても結構なんだけど、錯誤を紐解くとなると骨が折れる。人によっては、「あいつは、会う人によって言っていることが違う」と憤怒の形相を見せるかもしれない。

「いや、八方美人に振る舞っているわけじゃないけど、そう映るのだろうなぁ」と諦念しつつ、「でもね、意外とつながっているのですよ、根っこの言いたいことは」と心の中で抗ってみる。

「僕=A」「僕=B」「僕=C」だと僕は誤解しているから、人を紹介するのは苦手。相手のことを、「相手=A」と認識しても、紹介する人は紹介された人を「相手=B」だと認識するかもしれない。良い悪いじゃないから、そんなくだらないことを考えずに紹介すればいいけど、なんとなく、そのへんで臆病になっている。

こういったA,B,Cの認識って僕と他者の関係で発生するし、自分の中でも生じる。いわば僕vs僕。「あれれ、オレはこんなことを言いたいワケじゃないのに」と驚きながら、単語が数珠繋ぎに口から飛び出ていくのを抑えられない。それで失敗したり。

書くという行為も僕vs僕の人格転移かもしれない。「言いたいこと」を書くわけじゃなく、こう書けば、読み手は驚いたり怒ったり、つっこんだりするだろうなぁと想像しながら書く。だけど、書いてある内容を「ほんとう」だと思っている人はいるから、その人と実際に会うと、微妙な空気が流れる。ひょっとすると、「ウソ」と非難されるかもしれない。複雑だ。

人間の自己存在とは何であるか、がすでに幻想で、その幻想のなかで錯誤があって、相互認識が自己覚醒させる。

目に見える単純と目に見えない複雑、伝えることは単純で、伝わることは複雑。