いつが最後かわからない

この命、何をあくせく (講談社文庫)

愛する伴侶の最後を見守るという悲しみの極まるとき、ひとにいったい何ができるというのであろう。

私は手をにぎって、そのときが少しでも遅れるようにと、ただただ祈るばかりであった。

肺結核が「死病」とされた時期、肺葉切除という新しい手術が行われはじめたものの、これが極めて危険性が高かった。

このため大病院でも、それがそのまま最後の別れになるかも知れぬというので、麻酔をかける直前、伴侶など最愛の人と会わせておくという措置がとられた。

『この命、何をあくせく』 P.219-220

手術室へ歩いて向かう背中を見送る。笑顔で手を振って。最後の別れを微塵も感じず。そんな言葉などあったのか思うくらい脳裏によぎらず、まるで玄関から出ていく姿をいってらっしゃいと送り出すかのよう。数時間後、入っていった扉が開く。駆け寄る。ベッドに横たわっていた。焦点が定まっていない顔を眺めて安堵する。

無事終わった、という安堵。最後にならなくてよかったという安堵ではない。

非日常の場所へ向かうあなたを見つめているときですら僕は日常のなかにいた。もし、それが最後の別れだと覚悟していたなら、非日常と非日常が向かい合い、日常とかけ離れた高揚が笑顔を引き出すだすだろう。引きつった顔で。それも想像でしかない。

近所の花壇

非日常へ誘われたあなたを僕はどうすることもできなかった。ただ祈るだけだった。心の中とは裏腹の真っ青な秋空を見上げて、祈りは原始の姿なのかもしれないと僕は思った。何をどう祈れば通じるのか知らずに、ただじっと待った。

いつが最後かわかならないのに、「最後」という時間を知らずにいる。あるいは目をそむけている。それは、いつ、どのように、やってくるのかわからないにもかかわらず、それはまるで自ら選択できるかのような感触。否、常に抱擁していなければならない恐怖。恐怖とともに過ごそう。躰を震わせて。

ところが、ある会社員がそうした時点になったとき、やってくることになっていた夫人が、一向に姿を見せない。

やむなく、麻酔をかけようとしたとき、ようやく夫人がかけつけてきた。

しかし、その姿を見て、病院関係者は「アッ」と言うばかりで、次の言葉が出なかった。

<見れば今、美容院から出て来たばかりと思われるきれいな髪、美しい着物姿であったから>

それというのも、

<夫の最後の瞳に愛妻のいちばん美しい姿を焼き残しておきったかった由>

と、三木睦子『心に残る人びと』(岩波書店刊)は伝える。

『この命、何をあくせく』 P.220