立場が変われば何が変わるか

「外部評価が非常に低く、自己評価が異常に高い人間」のことを私たちの社会では一般に「バカ」と呼ぶからである。

via: アメリカの夢 (内田樹の研究室)

「バカ」を定義できる点が、年の功だと思う。断言に目くじらを立ててもしょうがない。そのとおりだろうし、問題は、「バカ」を自覚できているかどうか。読みながら熟熟考えた。

昨日、F財産コンサルタンツ京都のH氏とA氏と、ウェブサイトの打ち合わせ。場所は、接方来。はじめてのこころみ。こういうお店で、打ち合わせしてみると、いつもと違う発想がとびだすのでおもしろい。今回もやっぱり出た。ぜひアイデアを実行していただければ、と思う。

ウェブサイトを支援するようになって、今度が3度目のリニューアル(予定)。ウェブサイトは生き物だと再確認。立場が変わると、見方が変わる。見方の変化を俎上に載せられれば、サイトの訴求力がユーザーへ伝わる。

ところで、相手の立場に立って考えよ、と随所で見聞する。メディアに書いてあったり、誰かがしゃべっていたりと。言葉にするのは易しいのに、いざ行動に移すとほとんど手の届かない概念だと気づく(あきらめるのではない)。今夜、送信されてきたメールを読んで、冷静の平均台から落ちそうになった。かろうじて片足で踏みとどまった。私の立場を考えてメールを送ってほしい、なんて傲慢な希望を抱かない。ただ、もし(送信者である)自分が退職して、その後で、誰かが、まったく同じ内容のメールを送ってきたら、どう対応できるかを、(送信者に)考えてほしかった。それもワガママな望み。

右から左へ物事(あえて仕事といわない)を頼む姿勢を目の当たりにして、埒外の思考にふれる。20代なら暴言の一つでもはいて、イライラしていた。だけど、そのイライラする時間とイライラの感情がもったいないと思いはじめてから、事前に事態を回避するか、事後に傷口が広がらないように手を打つようにした。それでずいぶんイライラはなくなった。

右から左へ物事を頼むことを、「子供の使い」と呼ぶ。子供もかわいそうだと僕は思うけど、先人は、なぜ「子供」を選択したのか、まで深く考えたことはない。自分(たち)にとって疑問の余地がない行動が、外部の人間に奇異の感を抱かせることはしばしある。それは普通と異なっているだけであって、何が普通かを定義しなければ、奇異に映った原因を追及できない。

ところが、自分(たち)にとって疑問の余地がない行動が、外部の人間の目には「末期的」と映ることもある。これは、普通と異なっているのではなく、常軌を逸している。なぜなら原因を特定できているのに、取りのぞかれない、問題を放置したままだからだ。「それは組織の問題であって、私は組織の問題に汚染されていない」と自覚した時点で、侵襲されている。その自覚の総体が問題だから。

ご存じのとおり、「腐りかけたもの」は腐臭を発する。
それはわずかな、ほんのわずかな徴候から感知できる。
ふつうは「どうしてこんな奴が威張っていられるのかわからない奴が威張っている」というかたちで検出できる。
無意味にえらそうにしている人間がそこここに目に付いたら、その組織は「末期的」であると判じて過つことがない。

via: アメリカの夢 (内田樹の研究室)