まっちゃんのご期待に添えず

先週の金曜日、F先生の院内ミーティングに参加した。ミーティングが終わった後、まっちゃんが声をかけてきた。診療後に説教部屋(もちろん悪い意味ではありません)に連れて行ってくれませんか、だって。あいにく、17:00からS経営のT氏と打ち合わせがあったので、いったんはお断りしかけたけど、打ち合わせが鶴橋だったし、オモシロイ流れだなとひらめき、行くことにした。観察したいこともあったので。F先生はプライベートの予定があり(ひょっとしてF先生のご配慮があったのかな)、スタッフとの開催が決定。まっちゃんがさっそく声をかけたら5人が集まった。

F先生のスタッフは、僕の空間へうまく入ってくるなぁと評価している。同時に、隙を持つ自分に驚いている。というのも、僕が誰かと食事へ行くたびに、身近な人は、「断るということを知らないの?」と首をかしげるようだが、防御は固いほうだと自分を評価している。それぞれの人に応じて接し方を変えている。もし、一同が集まれば、「アレ、いつもの感じじゃないかな」と、みなさん少し違和感を抱かれるかもしれない。ただ、こんなことは大したことじゃなく、人はそれぞれ他人に対して演じているだろうし、濃度が違うだけだ。

F先生の前では、しっくりくる状態に近づいているだろう。もちろん、スタッフの前も。いま、キーボードをスタッフ”さん”と打たなかった点からも伺える。ラベルに敬称をつけてもしょうがないと考えているので、それがうっかり顔を出した。

20:00に医院の近くの赤とんぼに集合。S経営のT氏も同席。これが結婚式なら、「宴たけなわではございますが」と一句入るところで、まっちゃんが質問してきた。「私を電車に例えたら何ですか?」

非常に難しい。機知と洒落が問われる。認識の違いが浮き彫りになる。たとえば、まっちゃんなら近鉄奈良線の準急だ。ところが、まっちゃんが準急にマイナスイメージを抱いていたらどうだろう。僕は瓢箪山出身で、瓢箪山駅は普通しか停まらず(今は準急が停車するらしい)、追い抜いていく準急や急行や快速急行が恨めしかったし、羨ましかった。なので、まっちゃんの能力を恨めしいと思いつつ羨ましかったから、イメージを重ねた。

「例え」は、例える側と例えられる側の認識の違いを浮き彫りにする。正負や善悪、好悪といった主観的な感情が紡ぐ認識の違い。自分は主観的な感情を持っていなくても、相手は持っているかもしれない。そもそも主観と客観って何だ、なんてところへ累が及ぶ。あぁ、頭が痛い。なかなか手強いメソッドだ。相手を理解していないのに例えると、軽薄な印象を免れない。

「例えるなら」とニュアンスは少し違うけど、アナロジーも似た性質を持つ。Xを理解してもらおうとするとき、スポーツや芸術などに置き換えて説明する。ところが、アナロジーを使うとき、自分の得意な分野や関心を抱く出来事に置き換えたりする。これは気を付けないといけない。聞き手は、必ずしもそれを映像に置き換えられるとは限らない。まぁ、そんなケースは珍しいだろう。

酷い例は、野球のルールを知らない人に野球で説明してしまうこと(他にもいろいろ)。それに聞き手の中には、アナロジーだと「理解」していても、そのアナロジー自体にツッコミを入れてしまう人が、まれにいる。

たぶん、まっちゃんがここまで読めば、すでにこの文章がメタ(あまり使いたくない言葉だけど)であるとわかるし、そのメタをスタッフと来院者に適用すれば、進行中のプロジェクトの現象が見えてくるはず。

そう、「たとえはひとのためならず」と思う(ココはかなり理路をとばした)。

それにしても、F先生のミーティングやその後の説教部屋に参加していて、危機感を抱いている。僕の語彙力。これはかなりまずいなぁと焦ってきた。というわけで、焦ってきたけど焦らず、辞書の通読をはじめてみよう。宣言してプレッシャーをかけないと腰が重い:cry:

まっちゃん、いつも僕に気づきを与えてくれてありがとう。そして、ヨッシー、私の懐にスッと入ってきて驚いた。で、今ちゃん、トロッコ列車は抜群だった。Y先生、語彙の感性をいっしょに磨きましょう。K先生、これから少しずつよろしくお願いします。「しかいいきづまりました」は前後の文脈と発音、そして空間のいい勉強になりました 😉