コンテンツを持ちたい

昨日は京都のM先生とウェブサイトの打ち合わせ。その後、食事へ連れて行ってくださった。お疲れのところ申し訳ないと恐縮しつつお言葉に甘える。お店は、四条高瀬川にある葱や平吉。初めてのお店。格子戸を開けてお店に入ると、2階の座敷席に案内された。12畳ほど(もないかな、いやもっと広いのか、空間認識能力が著しく欠如)の座敷にちゃぶ台が5、6つあり、座布団に座る。町屋を楽しめる造りで、部屋の明かりの色相は赤と黄色を混ぜた感じ、彩度と明度を低くしている。薄暗いほどじゃない。幕末なら武士たちが口角泡を飛ばしたのかなぁと思いつつ、腰をかけた。隣は年配の女性が5人。右斜め向かいは男女5人の年配の方々(2人は若かったかも、後ろ姿のみ)。真正面は男女2人。他にもお客さんがいたように思う。いずれにせよ、平日なのに賑わっていた。

テナント募集

最近、外食産業の業績が芳しくないと何かで読んだ。ファミリーレストランの不振が顕著だそうだ。原油の高騰や食材の不安など、外部要因が取り沙汰されている。専門家が指摘するから間違いないのだろう。ファミリーレストランという形態が曲がり角を迎えている、と思う。家で食べるのと何が違うのかよくわからないし、ファミリーなんて耳にすると空々しい。大通りを走れば、店(メディア)がどこにでもあるだけで、店の内容(コンテンツ)は同じ。

ファミリーレストランの苦戦と本を重ねてしまう。(仕掛けの要素が多分に含まれていると推察するけど)10代の女性が「ケータイ小説を書いている」らしい。 ケータイで小説を読めるのか、とびっくりするけど、10代には小さい画面は関係ないのだろう。それに、あの画面にあわせた文体や表現も登場していると推測している。なのに、本はハードカバーから文庫(ときには間にノベルズ)という流れをかたくなに守っている。まったく理解できない。本の中身ではなく、ハードか文庫か、新書といったメディアを売っているのかなぁと首をかしげる。

ひとつの種類の花にも色がある

自分の観察が頓珍漢だと認識している。けど、不思議だ。「同じ食事(ファミリーレストランのメニュー)」を出す「外見が違うお店(すかいらーく、デニーズ、ロイヤルホスト…..)」が至る所にあることが豊かなのかな。豊かさとはどれだけ選べるかだ、と思う。もちろん、いい悪いじゃないし、デニーズのガーリックトースト(今もあるのか不安)は絶品だし(笑)

アレ、他人を観察しているけど、自分はというと、コンテンツを作っていないなと落ち込む。それは昨日の打ち合わせでも感じた。自分のコンテンツを持てるようにほんとうに褌を締めてかからないと、地デジが登場するころには、いないだろう。というか、その頃には、僕の仕事の半分はなくなっているだろう。