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堺雅人の徳川家定 実像と虚像

猫猫先生もやばいぞとおっしゃる篤姫 (NHK大河ドラマ)。たしかにやばい。以下、敬称略。

何といっても、「実は賢君」だというフィクションの将軍がまずかったね。原作とも史実とも違うのだが、うまい。宮崎あおいまで最近かわいく見えてきて、大変やばい。フィクションと割り切って考えれば、シナリオの質は高いのである。

via: やばいぞ「篤姫」 – 猫を償うに猫をもってせよ

今夜、堺雅人演じる徳川家定が身罷る。

山南敬助のイメージを確定させてしまったように第13代将軍徳川家定の虚像を構築したと思う。フィクションの家定はとかく震撼たらしめる。うつけを演じている時と賢君を演じているとき、両方を視聴者が見分けられるように堺雅人は演じる。演技の演技。視聴者が「暗愚か賢君か」の見分けが今日までつかなかったとしたら今ほど盛り上がらなかったのでは。支持される理由のひとつに、「わかりやすい」があるのではと(夫婦愛もふくめて)。

徳川将軍家を論じるとき、医学(科学)と歴史学を峻別して論じないと誤解をまねく。あとは闇の部分。前回、「長年毒を飲まされ続けたわしの身体はもうボロボロじゃ」と徳川家定は吐露した。日の目をみない事実もあったと思う。それは歴史じゃないとも。歴史は連続しているように錯覚してしまうけど、日常に埋もれた膨大な事実の断片をつなぎあわせた認識でしかない。認識を歪めるのは観察者。歴史学の実像や医学の仮説は、子孫が続く家の場合、ありのままに描写しづらいのではと穿ったり。差別や不快用語の範囲がひろがり、建前の倫理が表現を制限する「テレビ」をやるならNHKでも視聴率を看過できないわけで。そのへんの配慮が原作から差異を生じさせたのでは。

伝えられているように、天璋院篤姫が終生処女だったかもしれず(当時の女性としては悲劇)、島津斉彬の幕政への参画や大奥との確執、側室の妨害なんかの変数を将軍家と幕末の方程式に算入すると、(今の価値基準に参照すれば)解は不幸。四面楚歌の篤姫は徳川家定と画面で見受けられるような仲睦まじい夫婦であったかどうか、「おわ(あ)たり」がどれほどあったのか(数えるほどではと)なんて慮る。側室をあんまり全面に出すのも憚れる。じゃぁ、なんであんなにも徳川家のために奔走したのかというギモンが。そういった現代の価値基準を括弧に括って、論理だけで割り切れない、置換すれば、「画面に映らない」部分を自分で調べていくところに大河ドラマの虚像に対する好奇心がわいてくる。

それにしても、今回の配役を構想した人に拍手。いやぁ高橋英樹(島津斉彬役)が時代劇に必須と再認識。というのも、宮崎あおいや瑛太をはじめとする若い俳優が発話する「声」を聞いていると、どこか「ためらい」があるのかなぁと思う。自分たちが使わない言葉を発話する声が自分の耳に届く。それを確認しながら演じると、日常の自分と演技の自分に、普段の俳優以上の差異を身体が感じとってしまうからと考えてみたり。

ところが島津斉彬はもう成りきっているというか、外連味のない芸に達しているような印象。まるで日常生活のときからそんな言葉遣いをしているかのようで。違和感を自分のなかで抱いていない。「自分」と「自分」の間にズレがない、と勝手に私は楽しんでいる。

そのなかでやっぱり堺雅人が秀でている、ずば抜けていると勝手に唸って勝手に喜んでいる。だって大ファンなので(笑)

いや、ホント、強烈だよ、あの暗愚か賢君かの演じ方は。ときおり現代風なコミカルなふるまいをまじえて楽しませたり。