何もなければ何も残せない

私がいまもっともあこがれている人。言葉の掬い方や文脈を紡ぐ術、写真やモノへの感性に強く惹かれる。iPhoneが発表された”会場”でその人がアップした言葉。

iPhoneは「何を残して、何を捨てるべきか」を徹底的に追求された製品であると言うことができます。だからコピー&ペーストすらできない「コンピュータ」にこれだけの人々が熱狂するのです。

via: iPhoneを見て解った、Appleという会社の”本質を見抜く目” – shi3zの日記

「何を残して、何を捨てるべきか」…..Leicaで日常を切り取る感覚に近いのかも。身も蓋もない言い方になるけど、「何もない人」は「何も残せない」と思う。削ることは難しい。判断の基準を持っていないと迷子になる。「なんでもできる」と主張したとき、「何を残しますか」と尋ねたら沈黙がやってきた。もっとも残したいもの、世に送り出したいものに自信を持っていないから。

身近にもひそむ。一日の仕事をふりかえる。「何を残して、何を捨てるべきか」と考えると、身体が震える。コワイ。

「何を残して、何を捨てるべきか」を我が身に置き換えて考える。その行為は「自分が何をできないか」へと導く。「自分が何をできないか」の査定は自信の有無をあぶりだす。結果、「自信」があぶり出されればLeicaのファインダーに収まり、「無力」があぶり出されればフィルムに焼き付けられない。

負のベクトルじゃなくて、「自分が何をできないか」という可能性をひとつひとつそぎ落としていく作業は、徹底的に自分と向きあえる。一本の木からゆっくりと削り落としていく。現れた姿を他者が認識してくれたとき、「作品」なのかな。ずいぶん遠回りだけど。