わからないという免罪符

「ホームページとかってまったくわからない」

「ブログなら今すぐ作れますよ」

「ウソ!」

ホームページとブログは違う。共通点は手段。目的を達成するためにどちらかを選択したり、両方を採用する。ホームページとブログの「違い」を知らないし、ホームページを理解できない人が、「ウソ!」と口にする。ブログなら今すぐ始められますよ、と私が言ったとき。

自分で「ホームページとかってまったくわからない」と言いながら「ウソ!」と疑う。支離滅裂を認識していない。「ブログなら今すぐ始められる」と言った私は途方に暮れる。

わからないという免罪符

「わからない」という単語は曲者。「この世はわからない」と書くと大げさかな。と思いつつも、なんとなく「わからない」のニュアンスは伝わってくる。他方、「ホームページとかってまったくわからない」の「わからない」はわからない。何がわからないのか伝わってこない。私は耳を傾ける。共通の言葉を探して会話できる場所をまず探す。相手の職業にあわせたアナロジーがいいかな。あるいは趣味を使うか、などなど。頭をブンブン回転させて質問を脳内整理。何から尋ねよう。そんな矢先にさえぎる「わからない」。次はおきまりの常套句。

「どうしたらいい?」

わからないと言えば免罪符が与えられる。多くの免罪符は「知らない」と混用している。「知らない」ことを無意識に拒絶する。専門職(=他人から尋ねられる職域に棲んでいる人)になるほど認めたくない、ような。そして、「ウソ!」。口癖なのね、これがまた。

長い間わからないを免罪符にしてきた人の言動を眺める。一瞬だけどコワイ。その一瞬で全てを判断するのは短見。それでも身震いするな。だって、「どうしたらいい?」ばかりが口にでて、「何かをする」という回路が見当たらない。

「ホームページとかってまったくわからない」なら尋ねてくるはず。あるいは、何をわからないかを知ろうとすると思う。「まったくわからない」人が他人の言葉を「ウソ!」と判断。で、その「わからない」のに「ウソ」の基準はどこからやってくるのかな。不思議。

「わからない」と「わかる」

「わからない」と「わかる」はつがい。わかりたいからわからない。わからないからわかりたいじゃない。「わかりたい」がない人に「わからない」はない。つまり対話がない。尋ねられたら答える。もしくは、「しゃべる」だけでいい。

老若男女や世代を問わず、対話できない人はいる。それが悪いなんておこがましい。対話に「人が好きか嫌いか」をインストールしようとするから首を傾げる。対話は人が好きか嫌い集合に属さない思う。

「知っている」か「知らない」か、「知識」に比重を置くと対話しづらい。人やヒトが巻き起こす現象に目をむけない。現象に目を向けたとき「わからない」が姿を現すのだと思う。姿を発見できたとき、「わからない」を相手に伝える。伝えるための「言葉」を探す。途端、自分の語彙力の少なさに愕然。だから言葉を獲得すべく躍起に。

言葉に幽閉される

やがて獲得したと錯覚して、他者に「わからない」を伝える。そのとき、「同じ言葉」でも「違う意味」で相手は受け取るのだと気づく。それに気づいたときの絶望。絶望の淵にたったとき、希望へと橋を架けるのは「対話」だと私は感じた。

それは別に他者だけじゃない。自問自答もあてはまるのでは。「ホームページとかってまったくわからない」と「ウソ!」の間に潜む支離滅裂、それを自覚するきっかけは自分自身とのおしゃべり。

自問自答のとき、できるだけまっとうな問いを発見できるか。だけど、「できるだけ」なんて自ら断定できない。まっとうかどうかなんて判断できない。できないけどやろうとする、身を削る思い。自分を審問する。「知っている」か「知らないか」を捨てる勇気、「わからない」を免罪符にしない忍耐。

自分を審問するきっかけ、それは他者との対話にあると思うんだけど。わからないや。あ〜あ、最後にわからないという免罪符を使っちまった。