[Review]: モードの迷宮

モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

一昨日、NHK 番組たまご 東京カワイイ★TVを視た。オモシロイ。「カワイイ」は世界中で”そのまま”使えるらしい。P.ヒルトンを世界のセレブが東京へやってきては、「カワイイ」を連発していた。こういう現象は、言葉と意味が対にならないときに生じると思う。「カワイイ」という概念を表現する言葉がないのかなぁと思いながら視ていた。

不思議な気分。衣服の機能性を大きくかけ離れたり、本来の役割を果たしていない布に惹かれるひとたち。驚いたのは男性が購入したパーカー。沢村一樹さんはパーカーのキャラクターを指さし「サメ?」と尋ねた。私にもそう見えた。違った。パンダらしい。それが29,400円。番組によると、このブランドに若者は列をなすだって。20代以下の新車離れを映像から納得できた気分。

衣服の多くは布で仕立てられている。衣服は身にまとうものであり、さらに身体はたえまなく動くものだから、衣服の素材としては、軽くて伸縮性があり、身体の動きに合わせてそのつどシルエットを変化させることのできる布地がもっとも適している。これは機能性という観点からしえ自明のことだ。布地が裁断され縫い合わされてひとつの衣服に仕立てられ、それをいざみにつける段になれば、ある程度の遊びをのこしながらもだぶつかないようにまとめ、絞り込み、ずり落ちないようにどこかで留め、固定しなければならないというのも、これまた当然のことだ。そしてその場所は、首や腰など身体のくびれた部分が適しているということも。『モードの迷宮 』 P.33

自明であるずがどうやらそうでもない。ネクタイやベルトは衣服をまとめて留める機能から逸脱して、「縛る」といった働きへと転換している。衣服の領域を超えて身体へと及んできた。テレビの前に映る若者も。機能性を無視した衣服。顔のいたるところに穴があいている。果ては携帯電話に「衣服」をまとわせている。それを「カワイイ」という。携帯電話と衣服。まるで携帯電話を自分の身体の一部と化しているかのように。

とはいえ、モードの「身体への攻撃」は今に始まったことではない。19世紀には、体中を雁字搦めに拘束して、包み隠した。歪めた。異様に細い腰。肋骨が変形してまでも流行したコルセット。それが当時の美。

日本も同じ。吉原の太夫。花魁道中でえがくハの字に人々は見せられる。太夫は「オリジナル」の八の字を描くべく探求する。視線が注がれる先にあるのは八の字を描く「高下駄」。異様なまでに高い下駄。30cmにも及んだ。介添人なしでは歩けない。ゆっくりとゆっくりと、その姿が痛々しい。悲痛と凜、それが太夫の美をきわだたせる。

ファッションの構造は、<自然>の<文化>への変換、あるいは<文化>の生成そのものと関わっている。<自然>の歪形、<自然>からの逸脱ーおそらくここに《モードの迷宮》の扉をこじ開ける鍵が秘匿されているのだろう。そして、何かを禁じ、抹消してゆく運動が、そのまま、禁じられ、抹消されるはずのものを喚起し、煽りたててしまうという、ファッションのパラドクシカルな運動を切開するための切り口もまた、ここに見いだすことができるとおもわれる。 『モードの迷宮 』 P.54

<自然>の歪形、<自然>からの逸脱をファッションが私に煽りたてる。テレビの若者が買ったパンダのパーカー。それを別の若者が視たとき「感情」がともなう。私にはともなわない。もし、だれひとり気づかなければファッションはモードの最先端の外側にある。でも、誰かが気づいて誰かが気づかない、気づいた人に「感情」を喚起させるとき、モードはある。

だけど、もし、パンダのパーカーを街ゆく人全員が気づいたとき、モードは死を迎える。死と再生の循環運動。自ら創出した<スタイル>を消尽し、解体してしまう。スカートの丈はモードの典型。スカートの丈は時代とともにかわってきた。まとう人にも視る人にもスカートの丈の位置は意味をもつ。意味は道徳に翻弄される。丈の境界線、秘匿する身体部位と露出する身体部位、両者の境界線はわたしを縛り付ける。モードが身体ー衣服ー道徳をリンクさせる。衣服の「裂け目」から身体が露出したときエロスが現れる。でも、「秘部」は露出した瞬間に消失する。快楽とのひきかえに。パラドックス。「秘部」と「快楽」、今のモードはパラドクシカルなエロスを巧みに操れていないのかもしれない。

若者のモードはエロスより「ほんとうの私」のメッセージなのかもとテレビを視ながら感じた。異型の装い。既定の意味からの脱却。意味の先へ我が身を置く。意味の先へ置いた我が身へは他者の視線がそそがれる。自分の行動の「意味」を他者に知られる。「意味」が他者に侵襲し、その「効果」が他者から自分のもとへ。「行動した私」と「効果を獲得した私」は違う。でも同じ自分。

<わたし>は他の<わたし>の世界のなかにひとつの確かな場所をもっているのでなければならない。そして、わたしと他者とがたがいのうちに意味ある場所をもちうるためには、わたしは他者と共通の意味の枠組みのなかに住みこんでいるのでなければならない。『モードの迷宮 』 P.178

意味の枠組みを全力でつくりあげているのがテレビの前に映った「カワイイ!」なのかも。バルトの定義が頭によぎる。

「みずからせっかく豪奢につくり上げた意味を裏切ることを唯一の目的とする意味体系」とロラン・バルトが定義したモード現象、わたしたちをたえず翻弄するこの現象は、<わたし>の自己解釈と自己存在のあいだにずれがあるかぎり、言いかえれば、<わたし>が自らの皮膚を、自らの可視的・可感的な存在をもてあましているかぎり、要するに、<わたし>の近さと遠さに不均衡(ディスプロモーション)があるかぎり、<わたし>にとって廃棄不可能な現象なのである。『モードの迷宮 』 P.210