[Review]: 養老訓

養老訓

養老孟司先生はエッセー色の濃い書籍をいくつも書いていらっしゃる。時々の世相や事件、現象からご自身の見解を短い文章でつづっていく。専門分野の知識をスパイスに。身体と脳を引き合いに言葉を使って切る。例題は違えど解は同じ。同じだとわかっていても読んでいて心地いい。「ああ、また同じか」じゃなく、「おお、この話からいつもの話に達意するのか」と新鮮。以下、他でも目にした「仕事」について。

「仕事は自分のためにやっている」という考えが能力主義、業績主義の根底にあります。「自分に能力があるから、会社の業績を伸ばせたのだ」「会社の業績が伸びたのだから、自分が偉くなるのは当然だ」という考えです。ここにはまず「自分」が先にあります。そのせいで世のため、人のためという気持ちがなくなるのです。
しかし、仕事というのは世の中からの「預かりもの」です。歩いていたら道に穴が空いていた。危ないから埋める。たまたま自分が出くわした穴、それを埋めることが仕事なのです。

『養老訓』 養老 孟司 P.68

ホームページの制作をしているとなんとなく体感する。たとえば、ある商品のページを作ろうとする。ミーティングで耳を傾けると、「自分」が先にくる人もちょっぴり。その後、作成したページを改善しようとするとき、私は「お客さまに見てもらいましたか?」とその方々に尋ねる。続けざま「反応はどうでした?」と。

二通りの反応。

  1. 「う〜ん、やっぱり芳しくない」とか「○○の部分がわかりにくいからもう少し説明を」、「××がすごいわかる。もっと書いてほしい」やら。
  2. 「えっ、見せてません」「聞いてません」

1.ならコトはかんたん、じゃなくて複雑。そこに絶対不可視な他者が存在する事実をお客さまと私は認識。そこから「話」がはじまるわけで。とんでもなく長い道のりのスタート地点にたった気分。あーでもないこーでもないと是々非々をくりかえし更新。

2.なら話はカンタンだ。「自分」だけの人に私はコミットメントしない。できない。よくわからない。「共通した言語」を持っていない。というか、私のバカが脊髄反射してしまい、言われたとおりに制作する。そこに、私の意見も他者の存在もなく、ただ「自分」をウェブにのせる。

「年を取る」ということは「損得なんてもう関係ない」と先生はいう。欲がなくなるからだ。この「年を取る」という体現をシンプルに記した。これが、 『養老訓』 の最大かつ「余計な一言を言うのも老人の仕事」だと思う。結果、どうなったか。いままでの書籍にいなかった先生が現れた(と勝手に臆断)。

私自身は最近、大抵の人がみんなかわいく思えるようになってきました。かなりの人が年下になりましたからね。素直だなあ、欲に従って生きているな、とニコニコしながら見ていられる。あんなことを自分もやったな、と思いながら見ている。不機嫌な顔をする必要がないのです。

『養老訓』 養老 孟司 P.190

今、「老害」という単語が蠢動しはじめた。先生の経験にそえば、「欲を捨てきれない」人が「余計な一言」どころか国の舵を切る。まだまだオレは元気だからこの国の行く末を案じてと。あるいは、「私たちが若い頃はこうじゃなかった」と激高して苦情をいう。それを見る「大人」。そして孫。

でも、これは「年を取った」人だけじゃない。「自分」が”先”の人の数が増えただけか、あるいは「自分」が”先”というよりも「自分」まで引きづりおろそうとする仲間意識が強固になったのか。

耳にする音から「おかげさまで」がかき消されてきた感じもするけど、それもまた「自分」を先にしている私の幻聴だろうなぁ。