生あるうちに輝くなんて陳腐な言葉

掘り出しニュース:中学生の2割「死んでも生き返る」

「死んでも生き返る」と考えている中学生が2割もいる--。兵庫県内の幼児から中学生まで約4200人を対象に死生観を聞いたアンケートでこんな結果が明らかになった。背景には、身近な人の死に触れる機会が減り、一方でゲームなどに仮想の死の情報があふれる現状があるとも考えられる、という。死が絶対的なものとの認識は小学生でいったん確立するが、中学時代にはそれがぶれる現象が起きているようだ。

「生まれ変わり」などの宗教的イメージも重なり、生と死の境界をあいまいに考える傾向があるらしい。晩ご飯を食べる時間帯、テレビのスイッチを入れると知らぬ世界から手紙が届いている(らしい)。必ず高貴な人が前世だと教えられる(らしい)。有名人は前世も有名人? 他にも当たっているのかよくわからない占いとか(あるらしい)。”ギリギリ”だよなぁ。なんでアッチが叩かれるのにコッチは放映されると訝るのもしばしば。

そらそんなものを視ていたら未来は確定していると錯覚したり、知らぬ世界のヒトたちと”通信”できると信じちゃうのもうなづけますわな。

「あなたは自分がいつか死ぬと思いますか」と中学生のころに尋ねられたら、私は「死なない」と答える。これは自信がある。信じていたし。「死ぬわけないやろ、アホちゃうか」ってな具合。だと、4歳児程度の認識かぁ。

だから調査目的にこういう質問をお願いしてくる専門家に首をかしげる。”だから”とつないだのは、実体験だろって。4歳程度の中学生が20年もすればいっぱしの形而上をめぐらせる知能ぐらいはつかめますよ。放言すれば”2割”であろうが何割であろうが憂うこともないんじゃない。教師や教育関係者らでつくる同研究会の問い、ここに実体験というか、「理解」するのではなく「実感」させる感覚が欠落している。十全に回答できる事象じゃなく、自分で歳をかさねて内観していく程度のものだと思う。

「理解」を求めるから、「生きるとは限りある時間のなかでどう輝くかであり、これまで避けられてきた死の問題を正面から考えることが大切」なんて考えにいたる。「輝く」という言葉に辟易。じゃあ、自分が「輝いている」と判断する仕方を教えてほしい。

私からすれば、「死の問題を側面から考える」方が「どう輝くか」を考えるより身近だしとっつきやすい。生きることに価値を付与させるような理路に首をかしげる。「生きているだけでまるもうけ」という体験を積んでないから「輝く」なんて「死」以上に抽象的概念を持ちだしてあたかも「わかった」ようなフリをしているだけじゃないかなぁ。

先週の土曜日、里の両親に会いに行った。寿司屋で酒を酌み交わしているとしみじみとまた言われた。

「ほんまあんたが生きているだけでよかったわ」

この言葉だけあれば私は輝いてますよ。