『やがて消えゆく我が身なら』が「身も蓋もない話」なら本書もやはり身も蓋もない話だ。ただ、それを「身も蓋もある話」に変換する知性が私に求められる。歯に衣着せぬ物言いが心地よい。
他人と深く関わらずに生きる、とは自分勝手に生きる、ということではない。自分も自由に生きるかわりに、他者の自由な生き方も最大限認めるということに他ならない。[…]他人と深く関わらずに生きるためには、とりあえずは世間という呪縛から自由になる必要がある。
世間で流通している常識なるものをまずは疑ってみる必要がある。その上で、納得できることは受け容れて、納得できないことはイヤだと言えばよいわけである。世の中には様々な人がいる。[…]これらの人が、皆それなりに幸せに生きるには、互いに相手の自由を尊重する必要がある。しかし、自分にある程度の余裕がなければ、他人の自由を尊重するのは難しい。
本書は第一部と第二部の二部構成。第一部は他人と深く関わらずに生きるためのヒントが書かれている。
- 濃厚なつき合いはなるべくしない
- 女(男)とどうつき合うか
- 車もこないのに赤信号で待っている人はバカである
- 病院にはなるべく行かない
- 心をこめないで働く
- ボランティアはしない方がカッコいい
- 他人を当てにしないで生きる
- おせっかいはなるべく焼かない
- 退屈こそ人生最大の楽しみである
- 自力で生きて野垂れ死のう
表題を並べると目をむくような項目ばかり。大学で教鞭を執る池田清彦先生の趣味は虫取り。虫取りと言えば養老孟司先生がいる。御両人がどういう関係はしらないけどときおり互いの本に登場する。煌びやかな逆説を短い文章でテンポ良くズケズケと書く邪気のない毒舌は似かよっている。昆虫採取で自然とむきあうとおのずから先生方のような思考に到達するのか、生来の思考が昆虫を採取する自然へと足を運んだのかよくわからない。わたしが考えられるようなシロモノではないので、「ああ、自然か」という風に受け止めておく。
自分以外の心はそのひとだけのものであって、決して自分のものではない。この事実を理解している(つもり)。それがあやしい。自分のことを理解してもらいたい、認めてもらいたい、褒めてもらいたいという思いがある。その思いが評価へ変わるといささかややこしい。「どうしてわたしを評価してくれない」というフレーズが口から飛び出し、他人を寛容する度合いが狭くなる。
「他人をコントロールできる」と言えば頭が高い。「他人と理解し合える」と言えばいくぶんマシか。それでも根底には「わかる」という前提がある。それが常識を生成する。その常識は時代のフィルターに濾過されていない。関係ない。今の常識が不変なのだ(と思いこむ)。それに異を唱えたら冷淡な目で見られる。もう少しきつくなると排除される。
「自分以外の心はそのひとだけのもの」と認めて、「私を認めて」と求める。この理路が矛盾しているのかどうか、私にはわからない。ただ、臆断すると、第一部の表題の根底にはこの理路が伏流している。すると「問い」にぶちあたる。
次にレビューする予定の『正しく生きるとはどういうことか』やリバタリアン系の書籍を読むと私は頭を抱える。それがこの最後の文章である。そこに「問い」がある。私だけの問い。
何であれ、自らの情緒のみを正義だと信じている人は度し難い。人は生まれから死ぬまで多数派でいることはできないのに。多くの人々が少数派の情緒に寛容になれば、世界はずいぶん平和になるだろうと思う。とはいっても、人は多数派でいる限り、少数派の情緒を理解することは難しいのかもしれない。P.190
「自らの情緒のみを正義だと信じている人は度し難い」という意味がよくわからない。自らの情緒を押しつけてくるから腹立たしいのかもしれない。しかし、視座をかえれば『他人と深く関わらずに生きるには』という自体が情緒なのかもしれない。それは読み手であるわたしが勝手に判断するしかない。だったら、何も唱えず穏やかに過ごす方がずっと上品ではないかと思う。ところが、なにやらヒトというのは、多数派であっても少数派であっても異を唱えて「自らの情緒のみを正義だと信じている度し難い」と書き殴ってしまう。
それがどうやらヒトらしい、ということを少しずつ理解できるようになってきた。そうなるとこわい。何がこわいか。じぶんが「無関心」になっていかないかと。「寛容」と「無関心」の違いがどうもピンとこなくなってきた。