感想文#3

感想文#2を書き終えてホッとしていると、今度はもうお一人の方から感想文をいただいた。それもずいぶん前に。ようやく感想文#3を書いてみます。遅くなりまして恐縮です(笑)

院長の記事にも「新聞やTV、映画を見たり、本を読んだり、料理をしたり、おいしい食事を楽しんだりして下さい。」とありました。
その時はまだFさんのお話を聞かせて頂く前だったので、正直それよりも歯科の知識をより多く学ぶ事の方が重要な事なのではないかと思っていました。
ですが、「プロとして働いているのだからそれはあって当たり前の事」と言われ、そこからプラスアルファで何が必要なのかという事が大切なことなのだと気付きました。
今の自分は「あって当たり前」である歯科の知識もまだまだ足りていないし、適切な判断が出来るような経験も知識も不十分だと感じています。

拝読させていただいて、たいへん失礼というか、生意気な卑見を開陳したなぁとあらためて反省しています。「あたりまえ」ということばを軽々に使ってしまったようです。

「あたりまえ」ではないですね。膨大な知識とひたむきな努力、それによってようやく支えられるのですから無礼千万なことを申し上げたものです。ただ、言い訳をさせていただくと、一来院者としてのわたくしは、「あたりまえ」のなかに”とまどい”をこめています。

どういうとまどいか?

わたくしは医療という高度な専門知識と技術を求められる領域にじぶんがお世話になるとき、「何に信をおくか」を考えます。医療従事者の方々が駆使する知識と技術、それらをわたくしが付け焼き刃で学んだところで、何も判断できません。「判断」の埒外です。

では、わたくしが判断する範疇はどこにあるかと申しますと、医院とそこで働くスタッフの方々の濃度や密度、たちいふるまいです。定期健診に来院したとき、担当衛生士の方から説明を聞いたり話を伺います。そのときのわたくしは一般の方々よりは知識をもっているので理解しているつもりです。ただ、その先を理解するつもりはありません。むしろ、口腔内の変化を感じとるために問いかけてくださることばやふるまいに、「信を置くかどうか」を判断します。

けっして揚げ足をとるわけではありませんので、とまずお断りしておきます。知識や経験がいたらなくても、「適切な判断が出来るような経験も知識も不十分」だと判断されているところにわたくしは安心し尊敬いたします。反対に、経験や知識を十分に積んでいても、「気づかない」人もいれば、適切な判断をできない人もいます。わたくしもそのひとりです。

知に働けば蔵が建つ

「不十分だと感じる」、それを常に感じ続けられる姿勢に豊穣な想像力は内包されているのだと愚考いたします。想像力ということばは摩訶不思議で、「何を想像するのか」のスタートラインにたつ「前」があります。まるで眼前の検索サイトの画面に何を入力するのかを自覚して凍りついた感じです。

その想像力の根っこはなにか?

あいかわらず自問してもいっこうにわかりません。ただ、書籍からわかったフリをしますと、内田樹先生の『知に働けば蔵が建つ (文春文庫)』 内田 樹 に次の一節があります。「雑学」と「教養」の違いについてふれています。

「雑学」とは一問一答的に設定された問いに「正解」を与える能力のことである。しかし、「教養」はそれとは違う。[…]両者はまったく別ものだ。
教養は情報ではない。
教養とはかたちのある情報単位の集積のことではなく、カテゴリーもクラスも重要度もまったく異にする情報単位のあいだの関係性を発見する力である。
雑学は「すでに知っていること」を取り出すことしかできない。教養とは「まだ知らないこと」へフライングする能力のことである。P.9

前後の文脈を省略して切り出していますので、なにやら教養が際だってしまいます。なので誤解なきよう申し上げますと、わたくしは「教養が必要だ」と書きたいのではありません。なによりわたくし自身がそれを知らないので必要かどうかすら判断できませんので。

それよりも、「情報単位のあいだの関係性を発見する力」と「「まだ知らないこと」へフライングする能力」というテキストに惹かれるということをお伝えしたいです。口腔内と行動には何かしらの関係性があるのかもしれない、ふだんの生活シーンのなかに来院者の懊悩が隠されているのかもしれない、そういった正解のないとりとめのないことを推し量る力、慮りを大切にしたいとわたくしは思っています。

そのとりとめのないことを確信に変換するのが対話であり、「ここは聞くべきか」や「ここは話そう」とか「ここはあれを尋ねよう」と判断するのはまぎれもなくじぶんです。対話それ自体を判断するのは、専門的知識や技術もさることながらそれ以上次数が必要ではないでしょうか。そこに想像力の根っこのヒントがあるような気がします。

そして、対話の契機は他者です。同じく上の書籍から拝借します。

「他者とは私の理解も共感も絶対的に他なるものである」と定義してそれで済ましている方にお聞きしたいのだが、「定義して済ませる」ことができるというのは、すでに「他者」の定義に悖りはしないだろうか?
「他者? あ、あいつのことはさっぱりわからないねえ」というのはすでにある種の「理解」だからである。
もし、他者が絶対的に「わからないもの」であるとしたら、その「わからなさ」は「なぜわからないのか、わからない」、「どのような仕方でわからないのかわからない」、「わからないのか、わかるのか、わからない」という一段次数の高い「わからなさ」でなければならないはずである。
絶対的に理解を絶したものは、まさにそうであるがゆえに、もしかしたら理解可能かも知れない。
そういう考え方はできないものだろうか?
私はそういう考え方をすることにしている。P.21

「この判断をするのに重要なのが「想像力」だと思います」というすばらしいことばを頂戴しました。

またの機会がございましたら試行錯誤しながらみなさんといっしょにぜひ思いめぐらせてみたいものです。

というわけで次は、お二人の感想をうけてまとめを書いてみたいですが、これがなかなか…..。