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live without iPhone?

iPhone with MacBook Pro

「持ち運べるモバイルPCに近い」が、iPhone体験は「ノートPCでは味わえない」とも。「ネット人間のわたしがPCを使う頻度が10分の1に減った。一方で、ネットを使う時間は10倍になった。決定的に人生観が変わる」という。「今までこれなしによく生きてこれたなと」

via: 「今までiPhoneなしによく生きてきたなと」──孫社長、iPhone 3GSを猛烈プッシュ – ITmedia +D モバイル

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[Review]: 考えなしの行動?

考えなしの行動?

観察をしてみようと一度決心すれば、まったく難しいことではない。ただ、体系的に、そして注意深く観察するには、訓練が必要である。私たちは、あまりに効率良く世間を動き慣れているから、多くの時間を自動航行に任せている。

『考えなしの行動?』 ジェーン・フルトン・スーリ, IDEO P.187

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認識を認識できるか?

lake BIWA

世人は、天才によって人物が人を感動させる詩を書き、また絵画を描くことができるという場合、天才をよいものと考える。しかし、天才の真の意味、すなわち思想と行動とにおける独創性という意味においては、ほとんどすべての人々がーーー天才など何も感嘆すべきものではないとは誰も言わないにせよーーー心の底では、自分たちは天才がなくても充分やってゆけると考えているのである。遺憾ながら、これは当然至極であって怪しむには足りない。独創性こそ、独創的でない人々には正にその効用を関知することのできない一事なのである。

『自由論』 J.S. ミル P.132

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頭と頭脳

紫陽花

何が不思議といって、私に最も不思議なのは、人が、不思議なことを不思議と思わないことである。わからないことを「わからない」とわからないことである。わからないことを「わからない」とわかっていないから、わからないことをわかろうとして、わからなくなっているのだ。哲学的に考えていないからである。「無知の知」が哲学の起点とはソクラテスの言だが、頭があるなら誰でもできることのはずである。

『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』 池田 晶子 P.83

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視る要点の差異

琵琶湖

脳科学の最終目的の一つは、意志決定のメカニズムの解明でしょう。「なぜ自分はこのような選択をするのか」という疑問は、誰にとってもいまだ明確な答が見つかっておらず、考えれば考えるほどに誠に不思議な気持ちなるのではないかと思います。

『つながる脳』 P.155

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余計なお世話を焼けば焦がしかねない

サンパチェンス

外界の知識(情報)と頭の中の知識(情報)は、どちらも私たちの日常の活動にとって本質的な役割を果たしている。しかし、そのどちらの方をより重視するかは、ある程度は私たちが選択することができる。しかしこの選択にはトレードオフがつきまとう。すなわち、外界に知識を置くということの利点を使おうと思えば、頭の中に知識を置くことの利点が失われる。

『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論』 ドナルド・A. ノーマン, D.A. ノーマン P.128

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自己満足充足知足

ロベリア

非言語的コミュニケーションのシステムのなかで現れる指標は、話し言葉で現われる音の要素のように、それ自体切り離されては意味をもたない。意味をもつのは関係する項の集合の各項としてである。記号や象徴が意味を獲得するのは、他の対立する記号や象徴から区別され対照されるときだけである。

『文化とコミュニケーション―構造人類学入門』 エドマンド・リーチ P.103

自己満足に陥る、それをネガティブに受け取らない。いかなる満足であれ、自分が満足した瞬間、その質感の起源を辿る試行を自分自身が所有していればよい、と僕は思う。それが大切だ。満足は計測できない。他者の満足はおよそ統制できない。自分”以外”は何に満足してるのか。無言で満足する人やダブルバインドの人もいる。額面どおり受け取ってよいのかどうかわからない。

他者が発信する非言語的信号を受信したい。だけど、それに囚われると、コミュニケーションの呪縛が待っている。頭でっかち。「コミュニケーション」という単語を駆使して問題を考える。単語を使っているだけ。あっ、そうか、「コミュニケーション」を使って問題を解決しているような自己満足か 😛
コミュニケーションを解体するとば口にいつまでも立てない。

僕はなぜ満足するのだろう。何に満足するのだろう。どうして満足するのだろう。それだけ考える。別々の具体的事象を水平思考して、抽象化させる。共通項を書き出す。マインドマップを作成したり、キーワードを羅列したり。「自己満足」の認知を遡る。今、ひとつだけ自己評価している。それは、基本。基本を探求する人や組織と出会えば、僕は満足している(らしい)。

他方、「基本」の探求を止めてしまった人や組織に出会うと、自己嫌悪に陥る。なぜ自己嫌悪に陥るのか?

自分が満足するのは、(自分が算出した)期待値と(自分が認識した)現場が等値、あるいは、期待値<現場を指す。ならば、期待値>現場は、僕を満足させない。ところが、認識したのは、僕だから、「自分の見る目がなかった」わけ。だから自己嫌悪に陥る。

「自分の見る目がなかった」の意味は2つある。

  1. 外連味に誘惑された
  2. 価値を見抜けなかった

1.の場合、対象が基本を疎かにしていると、外連味に走る傾向が強い、と僕は観察している。それに惹かれてしまった自分を責める。基本を見定められなかったことが悔しい。

2.の場合、対象が理解の外側に存在すると、起こる。対象が素晴らしすぎて、僕の期待値では測定できず、価値を見抜けない。自分の底の浅さを理解する。

ジョン・スチュアート・ミルの言葉、「満足した豚よりも不満足な人間である方が、また満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方がよい」(功利主義第二章)を噛みしめる。僕は、満足したいために、自分の中に不満足を作る。

ただ一つ不思議な自己満足がある。それは衝動買いしたときの自分を慰める言い訳。あの言い訳を考えついたときの「満足」は表現できない。まるで、あの「満足」を感じるために衝動買いしたみたい。本末転倒 😀

知足なんてほど遠いな 😆