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セカンドオピニオンのセカンドオピニオン

「なるほど。先生はセカンドオピニオンに否定的お立場ですか」

「まぁ、否定的とまでは断言しないけど、歓迎はしないね」

「ところで、先生。先生はコンサルタントを何人か頼んでいらっしゃいますね? その人たちはみんな医院経営に関わるのですか?」

「ああ。会計事務所の他に、医院経営の専門のコンサルタント、あと、ホームページを頼んでいる業者、それと友人かな。今は、分野の垣根がなくなっているからね。友人はNPO法人を運営しているらしい」

「多士済済ですね。ところで、”医院経営に関わるコンサルタント”という視点で考えると、どの方が主治医でどの方がセカンドオピニオンですか?」

「…..」

「先生はセカンドオピニオンを歓迎しないのに、経営のセカンドオピニオンを必要とされる点に興味を抱いてまして」

「そ、それはだ。医療と経営は違うからだよ。第一、”コンサルタント”という視点だけで考えないよ。それぞれの役割があるんだしね」

「そうでしたか。失礼しました」

内田樹先生が「セカンドオピニオンを評価するのは誰か?」といったような内容を書いた文章を読んだ記憶が蘇った。だけど、うろ覚えにしか覚えておらず、ひょっとして内田樹先生じゃないかも。書架から先生の著作を全部引っ張り出してぺらぺらめくるも見当たらず。間違いだったか。

そうこうしていると、「セカンドオピニオンのセカンドオピニオン」を探すより、先生の著作を再読するほうがおもしろくなってきた。夢中。

一方、インフォームド・コンセントを医師の側からみると、「医師の判断力の低下」という裏面が見えるようにも思います。つまり、医師が「これが最適な治療法だ」という判断を自信をもって下せないから、患者に判断させる、ということです。
最近、医師の問診能力が低下しているという話を聞いたことがありますが、もしかすると医師の言語的コミュニケーション能力や、患者の身体状態についての感受性、身体共感能力が著しく低下しているということがインフォームド・コンセントをが言われ始めた背景にあるのかも知れません。

“私の身体は頭がいい (文春文庫)” (内田 樹) P.242

“ドクターショッピング”というラベル。次から次へ医師を変える患者、あるいは、次から次に医師へ質問する患者。医師に限らず、専門家と素人の図式が成立する業界なら少なからずあるかも。

豊富な人脈をお持ちな人と話していると、どうやって選択しているのか興味津々。多士済済が集まれば、みんな好き勝手なことをアドバイスする。その中から取捨選択していく。多士済済の助言をすべて取り入れれば、その人数分だけやることが増える。

今までに少し懸念を抱いたこともあったりなかったり。助言を取り入れ、業務が増えること、それ自体に喜びを感じる経営者。それはそれで素晴らしいけど、フィードバックする機会を持たない、否、持てないから業務だけが増えていく。臨界点を超えると、やりっぱなし。そして、続かない。

まぁ、そんな風に穿った見方をしてしまう僕をセカンドオピニオンが評価したら、「それは、あなたに人脈がないからですよ」と診断され、「いわゆる嫉妬ですね」とセカンドオピニオンのセカンドオピニオンに助言されそう。

あな悲し 🙁

感想文#4 まとめ

私の身体は頭がいい (文春文庫)

感想文#3につづき、最後にお二人の感想文(衛生士の藤林です , 衛生士の谷口です)をいただいたじぶんの気持ちをまとめてみたいと思います。結論から述べますと、「ハモる」って大切だなぁと再確認しました。唐突に「ハモる」と書いてもの何のことやらですので、例のごとく他人の叡智を剽窃してみます。じぶんで考える能力を持ち合わせていないご容赦を(笑)

さきごろ、内田樹先生の 『私の身体は頭がいい (文春文庫)』 内田 樹 が文庫化されました。2003年に出版された単行本です。で、さっそく手持ちの単行本を捨てるために文庫化された本書を再購入し、良い機会なので再読しました(といってもふだんからページをつらつらめくっているのですが…..)。そこに次の一節があります。

なぜ「自分がいちばんしたいこと」だけを選択して半世紀生きてきたら、レヴィナスを読み、合気道を稽古し、能楽を習うことになったのか、その理由がようやくこの年になってだんだん分かってきた。
すべては最終的には同じところに収斂する。
私が稽古していることすべて「他者から送られる響きを聴き取る」というただひとつのみぶりに集約される。
「他者」という概念が人間的水準で意味を持つためには、「他者から送られる響きを聴き取る」という経験が身体的にどのようなものかを知らなければならない。P.290-291

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たまたまと比較する心

ブロゴスフィアで「格差社会」を書くとき、丁寧に弁証を積み重ねていくか、奇抜なアイデアを持っていないかぎり、「虎の尾」を踏んでしまう。わたしは、そのいずれの才もないので書けない。けど、やっぱりじぶんも参加してみたいなぁという欲望もあって優柔不断。なので、コピー&ペーストの「引用」と「転載」で自慰行為をしてみようかと。以下、引用。愛読ブログからふたつ。

内田樹の研究室: ジニ係数って何?

私自身は「格差」というのは(ひろく「貧富」といってもいい)幻想的なものだと考えている。かつて「一億総中流」という認識がひろく流布しているときには(実際には天地ほどの所得差があったが)日本人は一億総中流気分であった。それと同じように「格差が広がっている」という認識がひろく受け容れられているときには、(実際に所得差がそれほどなくても)格差「感」は強く意識される。[…]人は自分の等身大を原器としてしか、所得差の意味を測ることができないのだが、人が「自分の等身大」と思っているものは、ほとんどの場合、イデオロギー的構築物なのである。

コメント欄がいくぶんにぎわっている。日中関係を述べたときほどでもないけど、内田樹先生のときおりのぞかせる「フツーに考えましょ」的な理路に読み手は反応する。内田樹先生の著書をこのブログやもうひとつのブログでレビューしてきた。批評できるわけもなく、「書いてある意味がわからない」とじぶんを罵りながらいつも読了する。

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[Review]: 逆立ち日本論

逆立ち日本論 (新潮選書)

この対談では、内田さんに大いに語ってもらいたかった。だから私は聞き手のつもりでいた。内田さんの発言は長くなっている部分があるのは、そのためである。あたりまえだが、自分の発言なんて、自分にとっては、なんの参考にもならない。しかも古希に近くもなれば、他人にとっても参考になるかどうか、あやしいものである。それでも相づちだけでは対談にならないから、いわずもがなのことをブツブツと述べた。

『逆立ち日本論 (新潮選書)』 養老 孟司; 内田 樹 P.6

『街場の中国論』の書評で、養老孟司先生が内田樹先生の思考を「対偶」と評したことについてふれた。それが本書。対談中に登場する。

養老: この人はぼくと同じ考え方をする人だと勝手ながら感じました。考える経路が似ているのではないかと思ったのです。ぼくはそれを「対偶」の考え方と呼んでいます。「AがBだ」というときに、「AがBではないとは、どうしたらいえるだろうか」と、反対側から考えてみるんです。「逆さまから考える」と言ってよいのかもしれません。

『逆立ち日本論 (新潮選書)』 養老 孟司; 内田 樹 P.41

対談しているお二人には、共通項が二つある。

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[Review]: 下流志向

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

先日もふれたけどくりかえす。多くの者が「方法」を知りたがり訊くけど、「なぜその方法なのか?」と意味を問う者は少ない。その「意味」のとば口に立たせてくれる一冊。「学び」は学術用語ではなく、ビジネスにも通用する行動だと思う。「学び方」を探求しようとする組織は常に進化している印象をうける。

自分にとってその意味が未知のものである言葉を「なんだかよくわからない」ままに受け止め、いずれその言葉の意味が理解できるような成熟の段階に自分が到達することを待望する。そのような生成的プロセスに身を投じることができる者だけが「学ぶ」ことができます。ですから、一度学ぶとは何かを知った人間は、それから後はいくらでも、どんな領域のことでも学ぶことができます。というのは、学ぶことの本質は知識や技術にあるのではなく、学び方のうちにあるからです。『下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち』 P.152

私が支援している歯科医院のミーティングに参加したり、院長先生から話を伺うとき、まず二つの事象に切り分ける。それが、「学び方」を模索しているかどうか。模索しているところは漸進している。

他方、模索していないとき、「そもそも学び方に気づいているのかどうか」に耳を傾けないといけない。そこで「設問する能力」が求められる。この「問題」について内田樹先生は『メノン』を引用する。

「問題」というのは、よく考えると、実はそれ自体が逆説的なものです。というのは、解き方がまるでわからない問題はそもそも「問題」としては意識されないし、解き方がすでにわかっているなら、それは「問題」ではないからです。つまり、僕たちが「問題」と呼んでいるのは解き方がわかりかけているけれど、まだ完全にはわかっていないような問題のことなのです。同P.153

「学び方」を探求している歯科医院は「学び方」を全員で共有する。あるいは共有しようと試行錯誤する。その過程によって以心伝心が強化される。その空間に「学び方」を知らないスタッフが加わったとき、「調和」が崩れる。そこで真価が問われる。

「わからないこと」を「わからないまま」に維持して、自分たちの知性の活性化に利用すべくそのスタッフに接するか、それとも「わからないこと」を気にしないかによって、行く手がわかれる。

専門家は顧客の質問全てに解答できる。それ自体すばらしいことだと思う。高度に専門的な知識を必要とする領域では重宝される。しかし、私はそのような領域に棲息していないので、「聞かれることすべてに答えてくれる専門家」を必要としない。

むしろ私には「完全にはわかっていないような問題を設問する」人が必要だ。私の少ない経験だけで愚考すると、そういう方々は、「何を質問しなければならないのか」を頭の片隅に置いている。そして、その「質問」が「発見」をもたらしてくれ、「共感」を与えてくれる。

手元にある本書は発売日に購入したので今第何版かわからない。でも、内田樹先生の著作の中で平積み期間が長いような気がする。そんな雰囲気から「学び方」に飢えている人も結構いらっしゃるのかなぁと感じたりするけどどうなのでしょう(タイトルも「釣り」的で上手ですが…)?