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私には関係ない
- 2008-07-19 (Sat)
- Diary
今日、JR京都駅のポルタに展示されている『洛中洛外図』 上杉本の高精細複製作品を眺めていた。そこへ警備員さんが声をかけてきた。
わかりますか? (私が少し首をかしげると)これが清水寺で…これがナニナニで、春・夏・秋・冬で…..
と説明してくれた。びっくりした。人なつっこい顔と優しい声だけにフォーカスすると説明に違和感を抱かない。だけど、首から下の容姿を認識すれば、普通なら想定外のシチュエーション。この違和感というかモヤモヤを持って帰るのはイヤだなぁと思い、無邪気を装って尋ねてみた。
よくご存じですね。
そしたら警備員さんは答えた。嬉しそうな笑顔で。こういう笑顔ができる人はステキだと心の中で思った。
いえね、学芸員さんの説明が耳に入ってくると、理解できるようになって…..それで説明をはじめました。
「説明」という単語を耳にしてギモンが頭によぎる。「説明」と「解説」は違うのだろうか? 帰ったら調べてみよう。そんなギモンから、警備員さんのふるまいを他者はどう受け入れるのかななんて連想ゲームのようにつながっていった。警備員さんのふるまいが越権行為かどうか私には判定できない。質問に答えられない場面に遭遇するかもしれない。だけど、私は警備員さんの説明を素直に聞いていた。
「私には関係のないこと」と「自分の仕事」を判定する人はいる。大半の判定基準は「量」であって、たんにやりたくないだけかなぁと思う。「与えられた仕事」みたいな幻想があって、その仕事を除けば私には関係ないことなのかも。あるいは、「役に立たない仕事」と錯覚してやらないのかと。もしそうなら、「仕事が役に立たない」と判断する自分は、世間の役に立っているのだろうかと不思議に思ったり。自分が役に立つ人だと自分自身を評価した経験がないので興味津々。「私には関係のないこと」と判断した人はたとえ手持ちぶさたであっても「仕事をしている」とふるまう。もちろん何でも引き受けろとかってわけじゃない。
警備員さんの数分の説明を聞いてから私はその場を離れた。少し距離を置いたところからしばらく洛中洛外図を説明する警備さんを眺めていた。出会った人々の反応は千差万別。驚き、訝り、喜び、作り笑い、相槌….
でも、わずかな時間の間とはいえ、なにもトラブルは起こらなかった。それでいいよなと独りごちて洛中洛外図をあとにした。
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必然の伝えると偶然の伝わる
- 2008-07-16 (Wed)
- Diary
考えていることを伝える。「それは”考える”ではない」と指摘されても。伝える手段はたくさんある。数多のなかから言葉を選択する。言葉は無限か有限か、今の私は知らない。その前に思考が無限か有限かも知らない。もっと前、「思考」をしたことがないと思う。極めて少ない己の語彙を取捨選択して伝える。伝えるは言葉を選択した者に訪れる必然。だけど伝わるのは偶然にすぎない。
伝えることを表現したとき、「伝える」とおりに「伝わる」機会はやってこない。いかように伝わっているかを知るよしもない。否、そもそも自分が発話した言葉が自分の耳に到着したとき愕然とする。「伝えることはそうじゃない」と。常に自分は遅れてやってくる。その自分に呆然とする。
Action is eloquence
必然の伝えると偶然の伝わるに拘泥したとき、我が身に訪れた。表現しているのは行為、それを言葉にした。煌びやかな逆説。
伝えると伝わるに存在する径庭。そこに伏流する言葉。そして最後に思考。最後にして原始の思考。
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[Review]: 無所属の時間で生きる
- 2008-07-03 (Thu)
- Review
城山三郎先生は四十にさしかかるころ、仕事の上でのストレスから体重が47kgにまで落ちた。その頃、三種類の睡眠薬を飲んでも眠れなかったという。三十代半ばから筆一本。不安にかられると、「なぜ、退職したのか」との悔いが顔を出した。三十代最後の年、「耐えること、耐えること、耐えること」と、三度反復したメモ(ご本人は忘却の彼方のご様子)。会社勤めを一度も経験せずに経済モノを執筆なさった。周りには「岡目八目」と韜晦。「物事を過度に考える性格」と自己分析した先生。その三十代の風景を36歳の私は脳裏に描く。
戦後最大の財界人石坂泰三を調べていて、幾日か出張するとき、空白の一日の日程を組み込んでいることに、私は注目した。
旅先で好奇心の湧いた場所や人を訪ねるためもあるが、ただ風景の中に浸っていたり、街や浜辺を散歩したり。経団連会長や万博会長など、日本でいちばん忙しい男であるはずの時期でも、そうであった。
その空白の一日、石坂は二百とか三百とかの肩書きをふるい落とし、どこにも関係のない、どこにも属さない一人の人間として過ごした。私はそれを『もう、きみには頼まない』(毎日新聞社、のちに文春文庫)の中で、「無所属の時間」と叫び、その時間の大切さを、私なりに確認したつもりでいたのにーーーーー。『無所属の時間で生きる』 P.18
政官財界の偉人には、大病を患い入院生活を余儀なくされた時期を過ごした人がいる。無所属の時間と色合いが似ている。それら偉人や城山先生と比較する気は毛頭ない。私はといえばずいぶんとさもしい無所属の時間を手に入れた。いつまで続くかわからない。ただ自分なりに無所属の時間で生きている。 まったくなにもかも違う先生と私。ひとつだけ同じモノをすくい取れた。
もっとも無所属の身である以上、ふだんは話相手もなければ、叱られたり、励まされたりすることもないので、絶えず自分で自分を監視し、自分に檄をとばし、自分に声を掛ける他はない。
檄や掛声である以上、三度繰り返したり、また、毎年似たような文句を繰り返すことにもなる。
度し難い話だが、それが人間ということなのであろう。『無所属の時間で生きる』 P.127
度し難い話。うなづいた。絶えず自分で監視していると、過ぎてしまえば何ということもないモノに心配したり怯える。見えぬ姿に恐怖を先取りしたり。あらゆる方向から手をうたねばと思い、それがかえって己を惑わしたり。万事つつがなくは無縁。万事過ぎてしまって、のちに呵々大笑で呑めたら万々歳。それでいいと思っている。周りの草木がかわる景色を味わいつつ、自分は相変わらず自分に語りかけ、自分を叱る。
最近、中野孝次『人生を励ます言葉』(講談社現代新書)を読んで、
「何方をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず」(『徒然草』)
といったところに、マークをつけ、また、ある青年が、
「金を稼ぐつもりのものは左手で書いて、ぼくにとって大事なものは右手で書きますよ」
と言ったのに対して、ノサックが、
「その左は同じ身体についているのです。左手が触れた堕落の毒は、右手に感染するでしょう」
と答えたという話のところにも、マークをつけた。『無所属の時間で生きる』 P.128
マークをつけて自戒の日々。「今朝酒あらば 今朝酒を楽しみ 明日憂来らば 明日憂えん」を唱え、「一日を生きる」を大切にしようともがく毎日。ほど遠い。悶々として夜を明かしてしまうときも。翌日なにも考えずに外へ。数分歩けば歴史が現れる。歴史の場所から琵琶湖を望めばゆうに千年は変わらぬ景色を再認識。そしたら胸の渇きが薄れていく。周囲の景色に身を溶かし、五感が掬い取ってくれた水で胸の渇きを満たす。ときにはファインダーに。それだけで贅沢。
先生は言う、「人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である」と。深く生きる、ステキな言葉だ。小林秀雄先生の逸話。たしか、どなたか同じ逸話を紹介していたはず、出てこない。まぁいい。これもまた深く生きた証、と私は思う。
たとえば小林秀雄さんは、ゴルフが終わった後のパーティーなどでは、ほとんど箸を手にされなかった。
一食たりとも不本意なものは口にせぬ、という主義で、空腹のまま鎌倉へ帰り、小町通りの天ぷら屋など、ひいきの店へ行くという習わしであった。『無所属の時間で生きる』 P.107
口腹の快。楽しみを知る人が通う店がおりなす街。その街も深い。深さは一日にして成らないけど、深くありたいがため一日を生きる。どれだけ深いか自身で知るよしもない。見えるわけでもない。やがて私を往来する人が気づけば幸、気づかずば修養を積めておらぬと自分を叱咤。浅学非才の身、そんな程度だろう。
城山先生は還暦にあたってメモを残された。私にはまるで五箇条の御誓文のよう。それを肝に銘じてまた無所属の時間を生きよう。
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大阪は左、滋賀は右
- 2008-06-30 (Mon)
- Article
旅なら気にならないし、東京の人(のフリをしている人)から嘲笑されたらされたで土産のひとつもできたと喜ばしい。だけど、住むとなると話は別。
それにしても、関西弁が柄が悪い、というイメージはどこから来たのだろうか。おそらく、テレビのせいだろう。吉本の芸人はかなり無茶な突っ込みをするし、強引に笑いを取る。だが、吉本の芸人が使っている言葉をそのまましゃべっている関西人はほとんどいない。あれはいわば「吉本弁」なのだ。「吉本弁」は大阪南部の言葉がベースにはなっているが、それと全く同じではない。だいたい、ああいう下町言葉を「下品」だと言うのであれば、我々も「てやんでえ」だの「あったりめえよ」という言葉にはかなり違和感がある、と言わざるを得ないのだが。
[...]だいたい、「関西」と「大阪」の区別がついていないことも勘弁してほしいものだ。我々は、自ら「ダサイタマ」ではなく「東京」と呼ばれたがる卑屈な埼玉人ではない。京都・大阪・神戸・奈良という関西の四大文化圏は、関東における東京・横浜・千葉・埼玉よりもよほど個性が強く、言葉一つとっても一緒くたにできる要素など全くない。それとも、東京人は自分たちの身内も「ダサイタマ」などといって馬鹿にしているくらいだから、よそ者などもっと馬鹿にしても当然だとでも思っているのだろうか。
「吉本弁」とは言い得て妙。さんまさんや紳助さんが全国ネットで関西弁を話すようになって吉本芸人は免罪符を手にした。以来、関西弁をキャラ立ちさせてきた。だけど、テレビの関西弁は衒いがある。関西弁+中途半端な標準語的トーク。私の里は瓢箪山。大人たちは河内弁を使っていた。特に瓢箪山から出ない大人たちは顕著。祭りの会合なんかで飛び交う言葉は下品。なぜ下品と思えるかというと、高校の入学式でショックを受けたから。瓢箪山から近鉄奈良線に乗車して30分ほどで上本町がある。そこで下車して高校に通っていた。大阪の外れから市内へ。大人であればわずかな距離。16歳には異国の地。同じ大阪なのに発音や単語の言い回しがわずかに異なっていた。わずかな差異がかなりショック。同じ大阪人なのに違う言葉、って感じかな。で、上本町や市内に住む人たちの大阪弁はキレイだった。キレイといっても、米朝さんが話すような上方落語の美しさじゃないけど。
瓢箪山と上本町の差異に驚いた青年は大人になって滋賀県に住み、今は大阪・神戸・京都を仕事で往来している。奈良は知らない。大阪・神戸・京都、それぞれが違う。エスカレーターですら違う。大阪は左側が空く、京都は微妙、滋賀は右側が空く。いわんや言葉をや。滋賀の言葉に大阪弁のようなイントネーションはない。歌手の「ゆず」を「ゆず」と発音すれば、「ああ、すぐ大阪の人やね」とわかる(文章にしたらわかるわけねぇや)。滋賀は前者の「ゆず」、大阪は後者の「ゆず」。京都は別世界。京都の商売人と話せば、京都をチラッと垣間見られる。千年王城とはよくいったもんだと体感。大阪弁とは異なるイントネーションな言い回し。大阪弁より少しゆったりした感じ。滋賀でも地域によって違う。なつかしい響きで話す地域もある。その響きはだいたい県の中心からはずれている。かつ、世代的には年配の方がおおい。大阪、京都、滋賀、たぶん、「世代」という影響は大きいと思う。
で、ATOKも違う。神戸、大阪、京都、奈良は一発変換できるけど、滋賀県は滋賀と入力しても一発変換されず、必ず滋賀県と入力しないと一発変換されない。屈辱。
つらつらと書いてたけど、何が言いたいかというと、東京のみならず、日本が世界を眺めるとき、「フランス人はシャワーを浴びない(から不潔)」とか「欧米人は歯並びがいい」などの景色を堪能する。ハリウッドスマイルに刷り込まれ、ナポレオンの臭いフェチに感化されたり。反対もしかり。ラストサムライを観たとき、椅子から転げ落ちそうな衝撃を受けた人も少なくないはず。あれを持ってして、「もっとひどかった。我々が現場の人たちと話し合いながら改善した」なんて真田さんの口から聞くと、「改善させる前の映画のほうが映画らしくていいだろう」とツッコんだり。微妙に正確な描写はやっかいなイメージを与えかねないわけで。
旅をするとき、旅行ガイドを片手に散策すれば効率的に移動できる。それはそれで便利。否定しちゃいけない。だけど、旅行ガイドを手にしたことによって、「関西弁は柄が悪い、下品だ」「大阪は民度が低い」と握手するハメになることも自覚しておこう。旅行ガイドは私の想像力をかんたんに奪い去る。あざやかな手さばきで。見わたすかぎり私の知らない景色。そのとき、ガイドを手にしたくなる。京都へ何度も通う人がガイドなしに遊べるようになっても住人ではない。反対に京都も千年王城のあぐらをかいていれば、再び不遇の時代をむかえる(修学旅行の学生しか見かけない時期があったようにお見受けする)。
滋賀県が滋賀と入力しても一発変換されないことを羨んでもしょうがない。滋賀(クソッ、いいかげん腹立ってきたので単語登録してやる)は神戸・大阪・京都・奈良へ羨望の眼差しをおくってもしょうがないto
国粋主義と地域主義はコインの表と裏。いずれも先鋭化してしまえば滑稽な話。
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[Review]: クライマーズ・ハイ
- 2008-06-26 (Thu)
- Review
《日航機123便は長野・群馬県境に墜落した模様!》ーーーーー北関東新聞の遊軍記者悠木和雅が友人の安西との約束を果たすため帰宅しようとしたそのとき、共同通信社の「ピーコ」が伝えた。日本航空123便墜落事故、それは「単独の航空機事故としては世界最大」を伝えるはじまりだった。死亡者数は乗員乗客524名のうち520名、生存者は4名。完全遺体492, 離断遺体1143, 分離遺体351, 移棺遺体79, 総合計2065体。完全遺体のうち五体がすべて揃っていたのは177体、離断遺体のうち、部位を特定できたのは680体、部位不明の骨肉片は893体。遺族の方々はいまだ癒されることなく、何かすがって懸命に生きている。『クライマーズ・ハイ』は地方記者の現場が描かれている。だから、事故の一報を受けたあと「どっちだ?」が当初の最大の問題だった。群馬なら「ウチの事故」、社の総力を挙げなければならない。若手は「めぐってきたチャンス」にはやる気持ちを悠木にぶつける。世界最大のヤマを誰よりも早く踏みたい。かたや年嵩の男たちは精彩を欠く。
悠木も同じ気持ちだからわかる。
群馬で事件と言えば、「大久保事件」と「連合赤軍事件」を指す。大事件という形容は当たらない。地元記者にとってそれは「後にも先にも二度と起こらない事件」だった。[...]二つの事件は昭和四十六年、四十七年と立て続けに起こった。だからその時期記者をやっていた人間たちは「二度と起こらない事件」を二つまとめて経験したことになる。
「大久保連赤」と詰めて呼ぶ。担当した記者の多くはその後の記者人生を一変させた。一言で言うなら天狗になった。十三年もの間、事件の遺産で飯を食ってきた。「大久保」の昔話で美味い酒を飲み、「連赤」の手柄話で後輩記者を黙らせ、何事かを成しえた人間であるかのように不遜に振る舞ってきた。 『クライマーズ・ハイ』 P.49
記者の能力があろうがなかろうが、偶然とった金メダルを首からぶらさげて社内を闊歩する年嵩の男たち。そのメダルの色が一瞬にして色褪せた。それを感じとったから男たちは複雑な胸の内を抱えていた。やがてこの複雑な胸の内が組織の相克を生み出し、「世界最大のヤマを報道する意味」が悠木の目の前に立ちはだかる。凄惨な現場を踏んで変わり果てた若手、現場を「商売」にしようとJALの主翼をバックに記念撮影する幹部、販売と記者の確執、上層部の派閥闘争、単独の航空機事故としては世界最大の現場からわずかに離れたところで男たちは別世界に棲んでいた。
佐山が書いた二度目の現場雑感。
【御巣鷹山にて = 佐山記者】
若い自衛官は仁王立ちしていた。
両手でしっかりと、小さな女の子を抱きかかえていた。赤い、トンボの髪飾り。青い、水玉のワンピース。小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。
自衛官は天を仰いだ。
空はあんなに青いというのに。
雲はぽっかりと浮かんでいるというのに。
鳥は囀り、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。
自衛官は地獄に目を落とした。
そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかったーーーーー。
『クライマーズ・ハイ』 P.103
本作品はこの夏映画で上映される。はやくもこの文章を映像化したシーンが紹介されていた。あの現場をなんとか再現しようとしたスタッフに感謝しながら佐山役の堺雅人は口にした。「(たとえ映画のセットが正確に再現されていようと)ココで520人が亡くなったのじゃない。それだけは忘れてないでおこう」と。そのとおりだと思う。
作者の横山秀夫氏は自身の記者時代に遭遇した日本航空123便墜落事故取材の体験をまとめて本作品を世に送り出した。ただ、事故そのものをテーマにしたのではないと思う。事故を素材に報道のありようを問いかける、もう少し踏み込むなら人の命を問いかけているように思う。
二十歳ーーー悠木の半分しか生きていない娘がメディアの本質を見抜いていた。
命の重さ。
どの命も等価だと口先で言いつつ、メディアが人を選別し、等級化し、命の重い軽いを決めつけ、その価値観を世の中に押しつけてきた。
偉い人の死。そうでない人の死。
可哀想な死に方。そうでない死に方。
[...]
《私の父や従兄弟の死に泣いてくれなかった人のために、私は泣きません。たとえそれが、世界最大の悲惨な事故で亡くなった方々のためであっても》
『クライマーズ・ハイ』 P.411
二十歳の娘が書いた投書にある”従兄弟”はかつての悠木の部下。その死がいまだ悠木の背に重くのしかかっていた。この作品が日本航空123便墜落事故だけに焦点をあてず、何か冗長的な感覚を抱かせるのは、この娘を登場させるためじゃないかな。そして、この娘の言葉がすべてだと思う。
悠木が全権デスクを指名されたにもかからず、組織の相克に巻き込まれていくなかで、随所で「判断」が迫られる。だけど、その判断は決して論理で導き出されなかった。どちらかといえば叙情であり、情動が論理を押しのけ意志を決定してきた。そしてその決定は周囲をさらに沸き立たせる。だけど、最後に佐山から発せられる言葉も情動だ。その言葉に悠木は落涙する。
論理か情動かじゃなく、人が判断するとき、大きく占める要素は何か? 見誤ってはいけない。
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問題を切り分ける難しさ
- 2008-06-18 (Wed)
- Diary
SANKEI EXPRESSに掲載されていた記事で感じたこと。昨今の報道とからめて。「問い」が硬直化して思考停止に至る恐怖を感じたので。
温暖化が実際に差し迫っているのか、それとも杞憂にすぎないのか、ということは、しばしば「白か黒か」というイメージで論じられるが、気候の専門家の話を聞いてみると「9割」の確率で人間による温暖化が進行中、というのが科学的な実態らしい。科学には定性的な議論と定量的な議論があるが、気候学者が出してくる細かいシミュレーションの中身は門外漢にはわからないので、なかなか「9割」という意味が伝わりにくい。SANKEI EXPRESS 2008.06.15 『「偽エコ」にはだまされるな』
『99.9%は仮説-思い込みで判断しないための考え方』の著者、竹内薫氏の記事。公共放送の環境特別番組に出演して気候学者の方々と3時間ほど論戦した内容をQ&A方式で掲載。そのなかの一文。気候学者たちが提示する定量的な議論に「門外漢」とはいえ得心している様子。それに反温暖化論者の議論は「定性的な議論」にとどまっていると指摘。だけど、反温暖化の風潮にも一理あると。
「人間のせいで地球が急速に温暖化している」という科学の話と、「だから、なんでもリサイクルしようと、エコ生活しようと」という対策の話は、まったく次元が違うからだ。対策は、政治、外交、経済の分野にまたがっており、科学とは無縁のところで、ドロドロとした儲け話が「エコ」の名の元に進行していたりする。そういった偽エコ活動にだまされずに地球温暖化を防止するのは、案外、難しい。
なるほど。「案外、難しい」は言い得て妙。居酒屋タクシーも同じ。「居酒屋がなぜ悪いのか」や「税金の使途」を俎上に載せる記事は多いけど、「深夜残業」の意味を問う機会は少ない。官僚をやり玉にあげる絶好の機会といわんばかり。
では、なぜ官僚は深夜残業が多いのか。
結論的に言えば、官僚が通常の業務の他に、
政治家への対応に時間を取られているからである。
「質問取り」や「質問主意書」を丁寧に解説してくださり、長妻氏の鬼の首を取ったような態度の解説までおまけつき。ブロゴスフィアでは専門家や政治に興味を抱いている人をはじめてとして、「なぜ深夜残業が発生するのか?」という問いから出発して論じている。ブログというメディアの醍醐味。
猫猫先生も怒っている。
『週刊朝日』の見出しはひどいなあ。「若者に気をつけろ」だって。実は私にも取材申し込みがあったのだが、通り魔無差別殺傷事件のようなものは五年、十年に一度くらい、社会的に不遇な者によって起こされているもので、当人の「彼女ができない」といった言に過剰に意味づけするのは間違いである、マスコミはこういう事件に意味づけしすぎる、と電話で言ったが、どうやら採用されなかったようだ。この手の事件に若者も中年もないのである。調子に乗るのもいい加減にしてほしいものだ。
via: 猫を償うに猫をもってせよ
同感。YouTubeには白黒映像がアップされている。昭和に発生した通り魔無差別殺傷事件の報道。ずいぶん古い。私が知らないスゴ本さんも憤る。
どの世代(職場・教室・地域)にも「困ったちゃん」がいるように、理不尽な要求を突きつける親たちはいる。しかし、そうした「困ったちゃん」が激増しているかのような印象操作をくり返すマスコミ・ライター連を見ると、「また君か」という気分になる。根拠と数字を元に議論しようよ。
新しい名前をつけて「発見」した気になるのはコロンブス・メソッド。ちっとは過去を見ろ。ママゴン、未熟児ならぬ未熟親、「ローカルちゃん」ママ、「責任転嫁」親、廊下すずめ、いろいろな名前で呼ばれてきた。「モンスターペアレントは、どこにいるか?」ではなく、「モンスターペアレントは、何と呼ばれてきたか」なんだね。
1936年まで時代を遡り、理不尽な要求を突きつける親の「名称」を紹介。
ブロゴスフィアに棲むようになってありがたいなぁと感謝する日々。知識が増える喜びじゃない。 「私の問いの立て方は稚拙だ」という認識をもたらしてくれる。知識を過度に軽視したりさげずむのは短見だけど、まずは知識を捨て去ることからはじめた。問いをゼロベースから見直す。「他者を受け入れる」というフレキシブルな姿勢を貫いているようで、その実確固たる己を持つことを私はもっとも恐れる。なぜなら、確固はやがて硬直をもたらし、ひいては停止に至る。
ただし代償は大きい。いつまでもたっても”頼りない”わけで。わはは。
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茶髪がひとりもいない男子バレーボールチーム
- 2008-06-08 (Sun)
- Diary
最近、ときおり目にする先輩-後輩の礼節とちょっとからめてみた。
バレーボール観戦は好き。昨今のボレーボール中継は嫌い。しょうがないけど。世界ではスポンサーがつかない競技なのに、日本はスポンサーがつく。2008年6月に退任したルーベン・アコスタ会長は日本のテレビ局と結託してFIVBに利益をもたらした。主要バレーボール大会がほとんど日本で開催されたいたのも承知のとおり(国際バレーボール連盟 - Wikipedia)。
さておき。
監督に就任した4年前、チームはバラバラだった。見た目ばかりを気にして、食事も不規則、会話もまともにできない。負けて笑う選手さえいた。「まずあいさつをしろ」と私生活から立て直した。大舞台を知らない若者たちへ、荻野と2人で「五輪に行けば人生が変わるぞ」と口酸っぱく言い聞かせ、目標を与えた。今や、植田ジャパンに「茶髪」は1人もいない。「石島も(他の)人が決めた時に『ありがとう』が言えるようになった」と笑った。
via: 日本男子も16年ぶりアベック五輪/バレー - 北京オリンピック バレーボール : nikkansports.com
スクールウォーズ礼賛の風潮というか、こういった記事がひょっこりあらわれる。特にオリンピックに出場したりビックタイトルを獲得すると、美談が舞い降りてくる。なんで今まで報じられなかったのと訝るなんて野暮ですから(笑)
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書くことはツライ
- 2008-04-24 (Thu)
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昨年後半あたりからどうも書けない。ジャンクを書いて凌いでいる。自分の気持ちにさからってムリヤリ書いている。まぁ、「それなりにやってますよ」と発信するツールであったりするから。机の隣に置いてあるプラスチックのA4ボックスをのぞくと、レビュー待ちの書籍が放り込んである。ざっと数えたところ40冊を越えていた。
今も手にとってパラパラめくりながら何か書こうかなぁと思ったけど、やっぱりうまく書けない。ボックスにもどした。
どうして書けないかを掌握できれば苦労しない。言葉にできない。ただ、レビューは言葉を出力するよりテンプレートにそった方が書きやすい。テンプレートを持っていない。そのあたりテクニカルの問題も含んでいるかな。
結局、「考えているようで実は何も考えていない」なんて古典的なオチだったり。要は「考える仕方」を忘れているとでも。
ここ数日にわたる侃々諤々の光市母子殺害事件や後期高齢者医療制度にも言及したいなとチラっとよぎる。明日はJR福知山線脱線事故。でも書けない。まとまらない。単語を並べるけど文章にできず。なにより関心の濃度が薄くなってきた。無関心じゃない。事件や事故そのものに自分をフォーカスするよりも、少し距離を置いた視点から眺めてみたい。「事件」や「事故」という集合とは違う集合からギリギリで交わろうとするような感じ。かろうじて裏ブログで愚痴を書き綴って「事件」や「事故」の集合のなかにいようとするぐらいか。「中の人なんていません」ってツッコまれそうだけど。
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スタッフさんの声が忘れられない
- 2008-04-23 (Wed)
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先日、F先生とスタッフのみなさんでミーティングのあと、食事をごちそうになった。そのとき、スタッフの方から声をかけられた。
「シンクセルさんと会いたいです」
正確にはシンクセルは私の名字で、もう少し前後の脈絡もあるわけだけど。で、私はというと、もちろん嬉しくもあり、照れた。仕事とはいえ、女性から「会いたいです」と声をかけられて、嫌がる男性は性差を超越した存在だろうし
だけど、どうして嬉しいと自問したら位相は異なるのかな。あれからずっと考えている。どうして嬉しいか。ちょっと感触を得てきた。ヒントは別のスタッフさんが私にかけた言葉。
「シンクセルさんは私が考えない点があるから」
ごめんなさい。正確に記述できない。まぁ、「着眼点が違う」とも受け止められる。
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新快速の人と普通の人
- 2008-04-16 (Wed)
- Diary
ウェブサイトを制作していると、更新用のコラムを目にする。なかには執筆者の許可を得て私が編集するコラムもある。失礼な話だと謝りつつも、心を鬼にしてキーボードをバシバシたたく。原稿を加筆。そんな経験を数年重ねると、執筆者や書き手を4つに分類するようになってきた。

テンプレートしておくと、善悪良悪は埒外。図の前提は100%主観、客観的データ0%の分類。図をひもとくと、横軸はコラムを書く人の脳内、縦軸がコラムのテキスト。横軸の「普通」と「新快速」はJR京都線の比喩。横軸は読み手にもあてはまる。
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