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何のために会うのだろう?
- 2008-07-13 (Sun)
- Article
G8が始まったらしいと思ったら終わったらしい。「らしい」毎日を送っていたので、「らしい」を出汁に日常のギモンを。洞爺湖サミットについてネットで流し読む程度しか知らない。イギリスでは「豪華なディナーを食べながら食糧危機を語る」と非難されているらしい。日本が投じたサミットの費用は600億円。400万人のエイズ患者の年間治療代に充てられるらしい。いずれの「らしい」や「成果」に関心を持たず。メディアの論評を知らない。
ただひとつのギモン。そもそも「何のために会うのだろう?」というギモン。こんなこと誰もが抱いているギモンだからなにもブログに誇張するまでもないと思うけど。調子にのってみる。テーマはナニって意味の「何のために」じゃなく、移動について。G8の首脳が事前に日程を告知してまで一個所に集まる理由を理解できない。インターネット全盛の時代、一つの場所にわざわざ移動してきて警備をつける理由がどこになるのだろうかと。有限のエネルギを効率的に分配しようとするとき、最小の移動を考えることも必要ではないかと。
国連にIRCサーバ を置き、各国の首脳がIRCクライアントに接続すれば移動しなくてすむ。サイバーテロと盗聴への対策費用は600億円を上回るのかな。別にそんな大仰でなくてもテレビ電話でも。通訳はややこしいのかな。
メールやチャットの文字ベースに加えて、Skypeのように映像+音声といったツールはある。それにWikiやメーリングリスト、グループウェアのように議事録や会議録、記録を保管したりディスカッションするツールもある。
バーチャルかリアルかなんてナンセンスで境目がなくなりつつあるなか、「何のために会うのか?」という病識を持ち続けておけば、自分のなかの中庸がすくい取れるような気がする。
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堺雅人の徳川家定 実像と虚像
- 2008-07-13 (Sun)
- Diary
猫猫先生もやばいぞとおっしゃる篤姫 (NHK大河ドラマ)。たしかにやばい。以下、敬称略。
何といっても、「実は賢君」だというフィクションの将軍がまずかったね。原作とも史実とも違うのだが、うまい。宮崎あおいまで最近かわいく見えてきて、大変やばい。フィクションと割り切って考えれば、シナリオの質は高いのである。
山南敬助のイメージを確定させてしまったように第13代将軍徳川家定の虚像を構築したと思う。フィクションの家定はとかく震撼たらしめる。うつけを演じている時と賢君を演じているとき、両方を視聴者が見分けられるように堺雅人は演じる。演技の演技。視聴者が「暗愚か賢君か」の見分けが今日までつかなかったとしたら今ほど盛り上がらなかったのでは。支持される理由のひとつに、「わかりやすい」があるのではと(夫婦愛もふくめて)。
徳川将軍家を論じるとき、医学(科学)と歴史学を峻別して論じないと誤解をまねく。あとは闇の部分。前回、「長年毒を飲まされ続けたわしの身体はもうボロボロじゃ」と徳川家定は吐露した。日の目をみない事実もあったと思う。それは歴史じゃないとも。歴史は連続しているように錯覚してしまうけど、日常に埋もれた膨大な事実の断片をつなぎあわせた認識でしかない。認識を歪めるのは観察者。歴史学の実像や医学の仮説は、子孫が続く家の場合、ありのままに描写しづらいのではと穿ったり。差別や不快用語の範囲がひろがり、建前の倫理が表現を制限する「テレビ」をやるならNHKでも視聴率を看過できないわけで。そのへんの配慮が原作から差異を生じさせたのでは。
伝えられているように、天璋院篤姫が終生処女だったかもしれず(当時の女性としては悲劇)、島津斉彬の幕政への参画や大奥との確執、側室の妨害なんかの変数を将軍家と幕末の方程式に算入すると、(今の価値基準に参照すれば)解は不幸。四面楚歌の篤姫は徳川家定と画面で見受けられるような仲睦まじい夫婦であったかどうか、「おわ(あ)たり」がどれほどあったのか(数えるほどではと)なんて慮る。側室をあんまり全面に出すのも憚れる。じゃぁ、なんであんなにも徳川家のために奔走したのかというギモンが。そういった現代の価値基準を括弧に括って、論理だけで割り切れない、置換すれば、「画面に映らない」部分を自分で調べていくところに大河ドラマの虚像に対する好奇心がわいてくる。
それにしても、今回の配役を構想した人に拍手。いやぁ高橋英樹(島津斉彬役)が時代劇に必須と再認識。というのも、宮崎あおいや瑛太をはじめとする若い俳優が発話する「声」を聞いていると、どこか「ためらい」があるのかなぁと思う。自分たちが使わない言葉を発話する声が自分の耳に届く。それを確認しながら演じると、日常の自分と演技の自分に、普段の俳優以上の差異を身体が感じとってしまうからと考えてみたり。
ところが島津斉彬はもう成りきっているというか、外連味のない芸に達しているような印象。まるで日常生活のときからそんな言葉遣いをしているかのようで。違和感を自分のなかで抱いていない。「自分」と「自分」の間にズレがない、と勝手に私は楽しんでいる。
そのなかでやっぱり堺雅人が秀でている、ずば抜けていると勝手に唸って勝手に喜んでいる。だって大ファンなので(笑)
いや、ホント、強烈だよ、あの暗愚か賢君かの演じ方は。ときおり現代風なコミカルなふるまいをまじえて楽しませたり。
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立ち止まってスルーしてみよう
- 2008-07-02 (Wed)
- Diary
「恥ずかしい」「愚かな行為」とか。事の発端はたしかどこかの短大の学生が書いた落書き。それが京都の大学から高校野球の監督の解任にまで発展。発端となった短大には抗議が数百ほど寄せられた(らしい)。内容は「処分が軽すぎる」。何か目をひく報道が姿をあらわすと芋づる式に露呈する。だったらイタリア・フィレンツェの大聖堂の日本語の落書き(全体の1割程度)をすべて映せばいいのにと思う。「ニュースになりそうな落書き」をピックアップしたんじゃなかろうと妄想も。
イタリアの新聞各紙は1日、1面でカラー写真などを使い一斉に報道。メッサジェロ紙は「集団責任を重んじる日本社会の『げんこつ』はあまりに硬く、若い学生も容赦しなかった」と報じる。
フィレンツェに限らず、イタリアでは古代遺跡はスプレーにまみれ、アルプスの山々には石を組んだ文字があふれる。その大半がイタリア人によるものだ。同紙は「日本のメディアによる騒ぎは過剰だ」と、日本人の措置の厳しさに疑問を投げ掛けた。コリエレ・デラ・セラ紙も「行為はひどいが、解任や停学はやり過ぎ」と論評した。
一方でレプブリカ紙によると、大聖堂の技術責任者、ビアンキーニ氏は「日本の出来事は、落書きが合法と思っているイタリア人にはいい教訓だ」と語った。
集団責任を重んじる日本社会のげんこつ、という文字。おお、テンプレートされた日本ってやっぱりあるんだ。こっちも同じような視線。ナポリのゴミ問題やら。ひとつの事件が契機に互いが改善されるとしたら歓迎だけど、垂れ流すことが目的になってしまうのはかんにん。そんな矢先のHack。これなんて思い切りスルーすればいいニュースだと思う。北海道でサミットが開催されるので、そろそろと腰を上げて警備を強化した矢先の出来事だったらしい。面目丸つぶれ。落書きした本人は英雄に。ならば「オレも」と模倣犯が蠢動しはじめる。それをまた報じる。エヘ、オレもニュースになったよ。
同署によると、落書きされたのは2両目で、幅約5メートルにわたって、赤や青の塗料で「Hack」などと書かれていた。センターは新幹線の点検や整備をする施設で、最終の回送列車が到着した1日午前0時過ぎ以降に落書きされたと見られる。1日未明には約20本の新幹線が止まっていたが、落書きされた車両は最も外側だった。
via: 新幹線側面に「Hack」の落書き、車両センターに深夜侵入か : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
毎夜流れる殺人のニュース。そのおかげで物騒になったと思いきや(否定はしないけど)、殺人件数は減少している(参照: google先生)。東京に集中した放送局が「全国で等しく知る必要があるから」みたいな錦をふりかざして北は北海道で起きた殺人を最南端で放映してくれる、そんなすばらしいシステムの恩恵に浴している証かもしれない。
テレビのコンセントを抜いておこう。エコらしいし。あっとコレも毎日流されるニュースのおかげだな。
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[Review]: 日本という方法
- 2008-06-25 (Wed)
- Review
コメンテーターが「元来、日本という国は」なんて口にしたら「チープでシンプルなナラティヴ」の鋳型かもしれないと眉に唾をぬってみる。天皇制が日本史を仕切っていた歴史はなく、武士道は徳川初期や明治前期の所産とのこと。ならば、日本が単一民族国家である説にいかが答えようと問われれば、その説は『単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜』によって論破された(らしい)。なるほど日本の歴史の年表を眺めたとき、「○○時代」で区切られているだけで、縄文時代から現代まで一本道で描かれる。世界史に散見されるような国そのものが変わったり王朝の交代などない。驚くばかり。だからといって、一貫性を主張するのは早計だ。
そもそも日本の自信って何なのでしょうか。明治維新で得たもの? 徳川鎖国体制がしからしめたもの? 芭蕉のサビや近松の浄瑠璃? 武士道みたいなもの? 信長らしさ? 竜安寺の石庭? それともずっとさかのぼって藤原道長の王朝文化や聖徳太子あたりにあったもの? それなら、その自信はどういうものだったのか。説明してほしいものです。
私は、このような問答があるたびごとに、日本のよさやおもしろさというのは、必ずしも「自信」や「強さ」や「一貫性」にあるわけではないと話してきました。歴史のなかのどこかに強いナショナル・アイデンティティの軸の確率があったわけではなく、また数人の思想家や芸術家によって日本の代表するイデオロギーが確立されていたわけではないと私は思っているからです。『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』 P.9
いやいやそんなはずない。「一途」は確立されていないか。確かに一途ではある。同時にたいそう多様でもある。日本は「一途で多様な国」といえる。代表格は多神で多仏(ステレオタイプだけど)。天皇と将軍、関白と執権、仏教と神道、それに儒教と民俗信仰。それらがヨーロッパのように二項対立で語られない。二項同体。二極を消すように腐心した。「正」と「反」が止揚して「合」にいたる。失敗すれば二項は対立したまま残る。それはまずい。事象は根本に撞着があるからこそ次の発動をおこす原動力となる。根本撞着が新たなモノを産む。
私たちの祖先は実におもしろい。枯山水から水を抜いた。キャンバスにすべてを描き尽くす油絵と異なる日本画を編集した。水を感じたいから、墨を感じたいから「余白」を産んだ。極度に短い詩歌のスタイルをとった和歌や俳句、省略が効き過ぎた禅庭や数寄屋造りなど「静かな日本」という面影を残しているかと思うと、他方、歌舞伎や日光東照宮の装飾、派手な山車の華麗で過剰な装いなど「賑やかな日本」という顔を持つ。前者は引き算をいかし、後者は足し算をいかした。どちらが本当の日本ではなく両方とも日本だ。一見、「黒と金」や「侘びと黄金」のように対比されて説明することもあるけど、静かな日本と賑やかな日本には共通の方法が潜んでいる。主題を述語的につなげた。主語的につなげていないところがおもしろい。主語が見えにくい日本。
宗教や文化だけじゃない。東国では貫高制の金の決済、西国では石高制の銀の決済が江戸後期まで続いた。東は水田優位社会、西は畑作優位社会。道具や言葉遣いも多様だ。神主さんと禰宜さん、湯と風呂、いろりとかまど、オトトイとオトツイ。
松岡先生はそういった日本の方法を「日本の方法」ではなく「日本という方法」と表現する。
表題を『日本という方法』としました。日本が「方法の国」であってほしいと思っているからです。「日本の方法」ではなく、あくまで「方法の日本」というところが眼目です。
そんなこと、同じだろうと思ってもらっては困るのです。たとえば「映画の都市」と「都市の映画」、「仮説の作業」と「作業の仮説」はちがいますし、「数学の方法」と「方法の数学」はあきらかにちがうのです。私は、古代アジア社会から日本が自立したときすでに、東アジア的方法から日本が生まれてきたと見ているのです。第2章にその経緯に一端を詳しく書いておきました。その方法の記憶こそ母なる日本だと見ているのです。[...]
方法は主題ではありませんが、主題を包摂する数々の可能性をもっています。たとえば茶碗のもちかた、測定のしくみ、板書の書きっぷり、交渉のやりかた、刺身の切り口、摺り足の運びには、茶や料理や能の、技術や教育や外交の本質があらわれることがあるのです。いや、以前も現在も、そのようなところにこそ、日本が日本自身を編集してきた特色が静かに発露しているのだと思われます。それが私が語ってみたかった「日本という方法」です。『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』 P.317
「日本という方法」を語るのに縄文時代まで遡り、そして昭和日本の「日本の失敗」まで駆け抜ける。まさに日本の歴史を「編集」した。編集された日本は「絶対矛盾的自己同一」の葛藤に向きあってきたと読み取った。矛盾を排除せず受け入れ、かといって矛盾のまま残さず同一しようと試みる。だから二項対立どころか多項対立も決めこまない。多項同体。矛盾を同一しようなんてできるわけがないと「わかっている」のに漸進していく。その過程で創造されるはたらきを矛盾と同一の相互作用として感じとる。その感性が「日本という方法」の国の母じゃないかな。
『Pirates of Silicon Valley』という映画に登場する言葉。Steven Paul Jobsが好んで使う言葉。
「Good Artists copy, Great Artists steal」(優れたアーティストは模倣するだけだが、偉大な芸術家は盗む)
パブロ・ピカソの名言。この言葉の意味が本書を読むと少しだけ理解できた。
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Bill Gatesが語る3つの施策
- 2008-03-14 (Fri)
- Article
1,100人のエグゼクティブが集ったbreakfast。そこでBill GatesとCraig Mundieがスピーチした内容に本邦との位相の違いを痛感。Craig Mundieはマイクロソフトの最高研究戦略責任者。彼が質疑応答で語った連邦議会への苦言?!
Members of representative democracy are supposed to know how to balance those competing goals, but Congress’s decisions are “too skewed to the short term right now,” Mundie said.
「矛盾する目的」のバランスをとる方法を議会制民主主義のメンバーなら知ってるはずと前置きしつつ、今の議会は「短期の目的に偏りすぎ」と指摘してる。世論調査とのにらめっこせざるを得ず、シリコンバレーの主張を政策に組み込んでもらうのにご苦労されている様子。
ここまでは日本も同じ。財政緊縮と格差是正の両立とか。目も当てられないけど。
じゃぁ、「短期の目的」じゃなく「長期の目的」はというと、Bill Gatesが連邦議会で提言したと。3つの施策。
Gates was on Capitol Hill Wednesday morning speaking to a House of Representatives committee about the need for three major areas of action: increasing the number of H-1B temporary visas and green-card permanent visas that are allotted to high-tech workers; increasing investments in federal research programs; and focusing on ways to improve the educational system, particularly in the math and science fields.
Bill Gatesが演説した3つの施策
- ハイテクエンジニアへ発行するビザやグリーンカード枠の増大
- federal research programsへの投資の増額
- 教育、とりわけ”数学”と”科学”のシステムを改善
なんだか「目線」が違うというか。日本がこの3つに取り組む姿勢がないというわけじゃない(1.は論点が別だけど)。ただ、最近の「上げておいて落とす」ような報道や批判の矛先を眺めると、「成長」をどこに置き忘れたかのような印象。
「成長」といっても高度経済成長期のような奇跡じゃなくて、sustainable noninflationary growth(インフレなきはちょっとね…..)を構築できる「長期の目的」がもっと語られないかと傍観。
まぁ、ねじれている間に今までのウミを全部出しちゃえよと思うけど。
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歯科医もワーキングプア
- 2008-01-24 (Thu)
- Round Up
ワーキングプアが深刻なのかと眺めていたら高学歴者(非常に優秀な研究者)のワーキングプアもメディアが報じないところでささやかれ、ヨーロッパでは「千ユーロ世代」が話題にのぼっていたり。で、ついに弁護士はじまったなと思いきや歯科医も。歯科の先生方については何を今さら感が漂ってますが。
歯科業界に限定すればもう少し酷くなるでしょう。需要と供給が不釣り合い。数十年程度先に産科医や小児科医と同じ状況になるまでつづく。ただし、産科医や小児科医ように「やってられねぇや」とつぶやき減っていくかにギモン。あと患者側の認識とシステムに開きがありすぎ。
産科・小児科・救急医療を中心に「医療崩壊」が各地で社会問題化する中、歯科医療がより危機的な状況にあえいでいる。[...]歯科では73項目にわたる保険点数が20年間も据え置かれていることが影響している。歯科医師や歯科技工士らに支払われる診療報酬は先進国に比べ極めて低く、歯科医師の5人に1人が年収300万円以下、歯科技工士の3人に1人が200万円以下の”ワーキングプア”状態に置かれているという。
歯科医師の5人に1人が年収300万円以下、歯科技工士の3人に1人が200万円以下。たしかに零細企業や中小企業程度の給料を支払っていたら、個人開業の歯科医院は続けられない。一人開業の歯科医院なら売上の頂点は固定される。青天井じゃない。
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先生、去らないで
- 2008-01-09 (Wed)
- Review
「医者は、三人殺して初めて、一人前になる。」と帯で社会に衝撃を放った『破裂』の著者、久坂部羊氏がSankei EXPRESSに『断』というコラムを執筆。以下、(法的な問題を委細承知の上で一読していただきたい一心から)全文。『断 - 医師が去るしかないのか』
タグ: cognition, dialogue, IMHO, life, philosophy, Review, society, think先日、知人の外科部長が病院をやめた。理由はいろいろあったようだが、医療裁判に巻き込まれたことが大きな原因だ。
彼は肝臓手術の専門家で、肝臓に転移したがんの新しい治療法に取り組んでいた。医療保険ではまだ認められないが、徐々に広まりつつある治療法である。
大腸がんが肝臓に転移して、ほかに治療法がなくなった患者に、彼はこの治療を勧めた。転移の数が多いので、死亡率は20%くらいと説明したが、このまま死を待つよりはと、患者も妻も治療を望んだ。ところが不幸にして経過が悪く、患者は亡くなった。
そこに娘が出てきて、そんな危険な治療とは聞いてなかった、父親を新治療の実験台にしたと言い出し、訴訟になったという。危険な治療であることは本人と妻には十分説明していたが、妻によれば、娘には「かわいそうなので、知らせなかった」らしい。そこで娘を説得してくれればよかったのだが、悲しみに暮れる母親にその力はなかった。
家族にすれば、ほかにも許せないことがあったのかもしれない。しかし、知人としては、患者を救いたい一心でやったことである。症状が悪化したあとも、知人は不眠不休の治療をつづけた。なのに娘はわかってくれない。
裁判は結局、医師側の勝訴に終わったが、知人は多大の心労を追わされた。患者によかれと思ってしたことなのに、こんなにも恨まれ、釈明を求められる。そのことに彼は「もう、いやになった」と漏らした。
大切な身内を失った家族の深い悲しみは、何よりも尊重されるべきである。それは当然のこととしても、何とか患者と医療者の敵対する状況は避けられないのものか。
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マナーに中指を突き立てる
- 2007-12-28 (Fri)
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自転車運転のルールづくりを進めていた警察庁の有識者懇談会(座長・吉田章筑波大教授)は27日、走行中の携帯電話、ヘッドホンステレオの使用禁止、保護者が幼児を乗せる際はヘルメット着用を義務付けることなどを盛り込んだ報告書をまとめた。[...]運転中に禁止、注意すべき事項として、携帯電話やヘッドホンステレオ使用のほか、歩道でむやみにベルを鳴らさないことや、雨天の場合は傘ではなく、雨がっぱを着用することなどを挙げた。
膳所のスターバックスへ向かう道中、自転車に乗っていると見かける。携帯電話で話ながら運転したりヘッドホンを装着している人。正直、こわい。私が後ろから迫っていることに気づいていない。特に、携帯電話の人は突然ハンドルをフラっとさせるからなおのこと。だから賛成かと言えば複雑。
携帯・ヘッドホン禁止と「規則」に明記しないといけないのかなぁと。
傘も同じ。歩行者の隣を走り抜ける、「あっ、あぶないな」と傍目にはハラハラ。傘と傘が触れたり。
なんだろ、「ルールには書いていない」という理由でふるまう。じゃぁ、ということで規制するための言葉をつくる。言葉に出力すれば解決できる錯覚。
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[Review]: 養老訓
- 2007-12-19 (Wed)
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養老孟司先生はエッセー色の濃い書籍をいくつも書いていらっしゃる。時々の世相や事件、現象からご自身の見解を短い文章でつづっていく。専門分野の知識をスパイスに。身体と脳を引き合いに言葉を使って切る。例題は違えど解は同じ。同じだとわかっていても読んでいて心地いい。「ああ、また同じか」じゃなく、「おお、この話からいつもの話に達意するのか」と新鮮。以下、他でも目にした「仕事」について。
「仕事は自分のためにやっている」という考えが能力主義、業績主義の根底にあります。「自分に能力があるから、会社の業績を伸ばせたのだ」「会社の業績が伸びたのだから、自分が偉くなるのは当然だ」という考えです。ここにはまず「自分」が先にあります。そのせいで世のため、人のためという気持ちがなくなるのです。
しかし、仕事というのは世の中からの「預かりもの」です。歩いていたら道に穴が空いていた。危ないから埋める。たまたま自分が出くわした穴、それを埋めることが仕事なのです。『養老訓』 P.68
ホームページの制作をしているとなんとなく体感する。たとえば、ある商品のページを作ろうとする。ミーティングで耳を傾けると、「自分」が先にくる人もちょっぴり。その後、作成したページを改善しようとするとき、私は「お客さまに見てもらいましたか?」とその方々に尋ねる。続けざま「反応はどうでした?」と。
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[Review]: 脳と仮想
- 2007-11-11 (Sun)
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世情を眺めると嘘から真をとりだす人が現れたなぁと思う。嘘をつく。その嘘にさらに嘘を薄く薄く塗っていく。だんだん”ほんとう”に。ついには嘘が「現実」だと認識。錯覚だよと私には判定できない。知らないわけで。ただおそらく世間は嘘を現実だと認めるわけないだろう。嘘はやっぱり嘘だと糾弾。あたりまえだな。でも、すこし引いてみる。”世情”や”世間”は「現実」だろうか。別に形而上を歩いたり、言葉を遊ぶつもりはない。表裏なき単純なギモン。「現実と仮想」を峻別するのは”何か”?
そもそも、人間にとって、自分の意識がある、ということほど確実なことはないはずである。物質的世界こそ確実だ、という近代科学の世界観は、おそらく公共的倒錯とでもいうべき奇妙なねじ曲がりの上に成り立っている。現実の世界がないというわけではない。現実は、きっとある。しかし、現実自体は知り得ない。私たちが把握できるのは、意識の中の現実の写しだけである。だとしたら、この世界で確実なのは、現実の世界ではなく、意識を持った自分だけではないのか。『脳と仮想』 P.229
『方法序説』が判断している。疑えるものすべてを廃棄したとき残るものは何か。20世紀、科学は意識から距離を置いた。物質で構成された世界のすべてを数式で表現しうるとした。意識を捨象して。
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