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ブログをKindleで、遺言です

パーソナルデータを世紀単位で保存できるのでしょうか?

ネットがパーソナルデータを世紀単位で保存できる仕組みを提供できれば、ヒトは情報に対して新しい概念を構築するんじゃないか、実現すればヒトはネット上で進化できるんじゃない? って想像しました。

まず、話を書くにあって以下の3つを想定していません。

  • 一企業の事業を想定していない
  • 新旧技術の対決を取り上げない(紙か電子書籍か デジタルカメラか銀塩かなど)
  • 専門的知識と技術を知らない

AppleはiPadを発表して電子書籍のプラットフォームを用意しました。iPadを使う広告写真を見ると、Appleは日常のシーンでもっとインターネットを提案しているように僕は感じました。生活のタスクをもっとオンラインへの提案です。

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[Review]: バカ丁寧化する日本語

バカ丁寧化する日本語 (光文社新書)

当然のことだが、相手のことを考えないとコミュニケーションはとれない。敬語はその最たるものだ。相手のことを考える。すなわち、想像力なくして敬語は使えない。敬語が難しいと思えば、普通の言い方に直してみるといい。敬語という化粧をとると真の姿が見えてきて、おかしな日本語や失礼な表現に気づくことも多い。そうしたら直せばいい。そして、必要なら、改めて挑戦すればよい。

『バカ丁寧化する日本語』(光文社新書) P.216

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fact or opinion?

琵琶湖

事実の記述は真か偽か(正しいか誤りか)のどちらかだ. つまり, 数学のことばを借りれば, 事実の記述は二価ーtwo-valuedーである. これに反して意見の記述に対する評価は原則として多価ーmulti-valuedーで, 複数の評価が並立する.

『理科系の作文技術』 木下 是雄 P.107

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待ちきれない人たち

死なないでいる理由 (角川文庫)

すいぶん前のことだが、ゴリラの生態研究で長らくアフリカに渡っていた友人が、久しぶりに日本に帰ってきて、こんなふうに話してくれたことがある。アフリカのことではなく日本のことだ。街にファーストフード・ショップがずいぶん増えていて、そこで食べている人たちを見ていると、つい、人間はサルに退化しつつあるのではないかとおもうというのである。

“死なないでいる理由 (角川文庫)” (鷲田 清一) P.36

人間は食べられる以上の餌を獲得すると、みなで分けて食べる習慣を身につけた。共食。一方、サルは餌を見つけても、その場で、自分が食べられる分だけ食べる。ファーストフード・ショップで金とバーガーを交換。ひとりで席につき食べる。

今日はイオンでお買い物。普段なら午前の早い時間に行くけど、事情があって14:00頃に行った。案の定、それなりに混んでいた。レジは行列。狭い店内にカートを押す人たち。思うようにすれ違えずみんなの表情が曇る。カートに子供をのせる人や小さいカートより大きいカートを押す人たち。それぞれの事情が交錯していた。

かごを持って歩き出し、野菜の値段を見て目を丸くした。高い。お客さま感謝デーに行ってしまった(5%OFFと宣言して総じて価格を上げる)自分に怒りつつ、それでも普段より、さらに5%OFFの値付けより上がっていたので驚いた。やるなぁって感じ。商売上手。年末年始の運送費は特別料金なのかな?

莫迦らしい、よって必要最低限の野菜と食料だけカゴへ入れてレジへ。

レジは砂糖みたいだった。アリの行列。少しでも早いところへとすれ違えない通路を滑走する人、人、人。父親に1番から18番まで確認させたり、どこのレジが二人体制かと見に行ったり。レジの導線には奉仕品と書いた商品が置いてある。狭い通路がさらに狭くなる。歩行の快適性と導線の寸断を天秤にかけたとき、イオンの店長は後者を選択した模様。どれだけ’印象が悪くなっても気にしなくてよいのだろう。掲示板へ苦情を申し立てられても、一円でも売ろうとする精神に敬服した。

僕は待ち人が少ないレジへ。もちろん一人体制。だからみんな並ばない。進まない。後ろの人たちはイラついている。後ろを振り向くと、首をキリンみたいに伸ばして前方を見る人たち。思わず笑いそうになったので、他のレジを見回すと、子供の頃にやった格好をしていた。少しでも身長を高く測定してもらおうとする仕草。笑いそうだ。だけど、10分も並ぶと阿鼻叫喚の様相へ。罵詈雑言の囁き声。

僕から二人ぐらい前の女性が「マイカゴ」を持っていた。大量の商品。その女性は、「これはここに入れて」とレジの女性へ指示する。どうやら、商品が自分の思い通りに収まらないと気に入らないらしい。後ろの人たちは、我慢の限界か。

僕は、周りをぼおっと観察していた。意識してぼぉっとすればするほど自分の時間と周りの時間がずれていくように感じた。

もう待てないんだ。

そう、待てない。コンビニエンスストアやファーストフードで待てない。待つ必要もない。待てるのはバーゲンと新装開店。

あたりまえ。待つほうがおかしい。待たせるなんて何事。元旦からイオンはやっている。なのに待つ。そこには待てない人の感情が充満する。

携帯電話は待ち合わせ場所と待ち合わせ時間を取り去った。きれいに。

待つ。じりじりすぎていく時間。待つは消える。

待たなくてもいい時間、待たなくてもいい場所を選ぶという自責はない。それでいいんだ、と。ぼぉと待っている自分のなかで、つながった。「待つ」と「弱さ」。

「人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている」。十七世紀の思想家、パスカルのこの言葉をくりかえし噛みしめておきたい。

“死なないでいる理由 (角川文庫)” (鷲田 清一) P.39

[Review]: プリンシプルのない日本

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)

私個人としては昭和二十八年は嫌な年であった。然し国民の一員として考えると嫌なことはもっともっとふえる。もっともっと深刻なことが始まるだろう。生意気なことを言いやがったと方々でおこられるのを覚悟して言うが、この国をこんな破産状態に陥れたのも我々の時代だ。死ぬまでに我々の愛する子孫の負担がいくらかでも軽くなっている様に、ここでほんとに腰をいれてやろうではないか、現実を直視して。勇気と信念を似って。

『プリンシプルのない日本』 P.142

内田樹先生は「「こだわり」とか「プリンシプル」とかいうのは、あまりない方がいいとつねづね申し上げている」と書き(引越直前どたばたデイズ)、「原則として「ことに臨んでは無原則に対応する」ことにしている」とのこと(原則的であることについて)。

視座はどこか。それによって意味を理解する仕方が異なる、と思う。英語と日本語、いくら訳とはいえ、どのような文脈で使われるのかを僕は理解してないので、理解の仕様がない。両者の考想を受け入れられる。同じテーマを捉えるとき、生きる年代が変わると、視点や発想が違うのも興味深い。その中から普遍を自分で探し出していく。普遍を取り出して、それが妥当かどうかを自分の中で壊して練り上げる。そんなことをしていると一年なんてあっという間に過ぎていく。

自分の無知や無能を認めることは、「よくある向上心」にすぎない。
「ブレークスルー」は「向上心」とは次元が違う。
自分自身が良否の判定基準としている原則そのものの妥当性が信じられなくなるというのが「ブレークスルー」である。
ところが、「原則的な人」はこのような経験を受け容れることができない。
自分が立てた原則に基づいて自分自身を鞭打ち、罵倒し、冷酷に断罪することにはずいぶん熱心だが、その強権的な原則そのもの妥当性については検証しようとしない。
原則の妥当性を検証する次元があるのではないかということに思い及ばないのである。
それが「原則的な人」の陥るピットフォールである。

via: 原則的であることについて (内田樹の研究室)

「ことに臨んでは無原則に対応する」人格と「ことに臨んでは原則に対応する」人格が共存できないか、と僕は暴れている。内田樹先生の仮定を是とするならば、「よくある向上心」を纏えているようだけど、「ブレークスルー」には至っていない。

自分を評価するとき、「自分の基準をどうすれば破壊できるか」と一言で集約する。人と会い、何かを交わした時、「なぜそれなのか」を一人になったとき検証する。すると、「自分で基準をどうすれば破壊できるか」に拘泥しているけれど、「パターン」の思考をくり返している、と気づく。文字通り、「自分の基準をどうすれば破壊できるか」がそう。原則だ。

「原則の妥当性を検証する」仕方がわからない。それが原因だろう。さりとて、それを発見できたとして、今度は、「原則の妥当性を検証する」が原則にならないのか、と思い巡らせる。

ここで躓きたくない。堂々巡りという安住の地に身を置き、言葉で戯れること。小難しく受け止めるつもりはない。自分の生活(僕はこれを経営と言うけど)に置き換える。半径数mで発生する事象を見る。見ているようで見えてない。イオンに行って客の苦情や改善案を掲示している板を読むと、無原則のようで、何かしらの原則が潜んでいるのではないか、と思う。そうかと思えばあきらめの感情を抱く。そんな些末なことに人は怒り、不愉快になるかと。

著者と内田樹先生、プリンシプルと原則を書く二人。どちらも内省を背負っている。僕が二人の中から見いだせた普遍はそれだ。それが妥当かどうか、これから検証しなくちゃいけない。ゆっくりと。時間を計算式から除外して。