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顔・顔・顔
- 2008-07-24 (Thu)
- Diary
スポーツ観戦が好き。特定のスポーツ観戦じゃなく幅広く観る。といっても、「観戦」が好きじゃなく、スポーツの現象を眺めるのが好きといった感じ。眺めた現象を自分で再構成するのが習慣になっていた。「観戦」自体が好きじゃないと書く理由はあって、昨年あたりから観る機会が減ってきた。好きなら減らない(と思う)。減った理由は単純で、時間配分を見直したから。ベクトルが変わると、それに応じて費やすリソースと配分の時間は変わる。おまけに勉強(そんな大げさものじゃないけど)したいから、その分の時間を増減させないといけないので。
それでも欠かさず観るスポーツはある。その一つが全英オープン (ゴルフ) 。他にはウィンブルドン選手権やモナコグランプリとか。共通点は分かってもらえるかな。今年の全英オープンは眠い目をこすってテレビにかじりついた。グレグ・ノーマン のプレーに魅了された。もちろんゴルフはやったことないのでわかるはずもなく、ひたすら表情と振る舞いをインプットしていた。
私は「顔」と「声」に興味を持っている。興味というより観察の対象のほうが適切。「顔」には滲み出る「何か」があると錯覚しているし、「声」には惹きつける(あるいは忌み嫌われる)「何か」があると誤解している。身体が感知する信号みたいな。なかなか言葉にできませんね、やっぱり。
前置きが長すぎた。興味深い記事を引用。
翌最終日の2番ホール、ティーショットをラフに打ち込んだ尾崎は、ドライバーを持ったままセカンドショット地点まで歩いていった。尾崎は、そこでいつもそうするように、ボールの後ろの芝生をドライバーで押さえつけると、クラブをアイアンに持ち替えてショットを打ったのだ。彼は、前日までも同じような行為を繰り返していた。いやそれは長年にわたる彼特有の「習慣」でさえあった。
尾崎将司の「習慣」にノーマンは競技委員を呼んだ。
ノーマンは違った。競技委員を呼ぶと、尾崎の行為は「ライの改善」に該当する可能性があるという指摘を行ったのだ。“世界最強”で、かつ当時の“世界最良のゴルファー”からの指摘はまったくもって妥当なものであった。
協会、主催者、同伴競技者、ゴルフジャーナリストたちが見て見ぬふりをしてきた「習慣」に対して日本ゴルフ協会の競技委員はノーマンに言い放った。
「日本と米国では芝の質が違うため、日本ツアーではそれはルール違反には当たらない」という意味不明の説明でノーマンの忠告を退けたのだ。
ノーマンは次の言葉を残して日本を去った。
「ゴルフのルールは誰に対しても平等であり、世界共通でなければならない」
今より良いクラブを常に求めた尾崎将司と同じクラブを調整しながら長く使った青木功。日本の尾崎と世界の青木。ゴルフの外側にいる人ほど対比にのめりこみやすい。対比は現象を観察するのに必要かもしれないけれど、対比の表面張力に頼ると思考はあらぬ方向へすすむ。
毎日、自分の顔と対面する。見ているようで見落としている。馬齢を重ねた私の顔を自分で認識するのは困難だ。だから他者から自分の顔を確認する。その作業を怠った顔にはなりたくないなと独りごちる。
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堺雅人の徳川家定 実像と虚像
- 2008-07-13 (Sun)
- Diary
猫猫先生もやばいぞとおっしゃる篤姫 (NHK大河ドラマ)。たしかにやばい。以下、敬称略。
何といっても、「実は賢君」だというフィクションの将軍がまずかったね。原作とも史実とも違うのだが、うまい。宮崎あおいまで最近かわいく見えてきて、大変やばい。フィクションと割り切って考えれば、シナリオの質は高いのである。
山南敬助のイメージを確定させてしまったように第13代将軍徳川家定の虚像を構築したと思う。フィクションの家定はとかく震撼たらしめる。うつけを演じている時と賢君を演じているとき、両方を視聴者が見分けられるように堺雅人は演じる。演技の演技。視聴者が「暗愚か賢君か」の見分けが今日までつかなかったとしたら今ほど盛り上がらなかったのでは。支持される理由のひとつに、「わかりやすい」があるのではと(夫婦愛もふくめて)。
徳川将軍家を論じるとき、医学(科学)と歴史学を峻別して論じないと誤解をまねく。あとは闇の部分。前回、「長年毒を飲まされ続けたわしの身体はもうボロボロじゃ」と徳川家定は吐露した。日の目をみない事実もあったと思う。それは歴史じゃないとも。歴史は連続しているように錯覚してしまうけど、日常に埋もれた膨大な事実の断片をつなぎあわせた認識でしかない。認識を歪めるのは観察者。歴史学の実像や医学の仮説は、子孫が続く家の場合、ありのままに描写しづらいのではと穿ったり。差別や不快用語の範囲がひろがり、建前の倫理が表現を制限する「テレビ」をやるならNHKでも視聴率を看過できないわけで。そのへんの配慮が原作から差異を生じさせたのでは。
伝えられているように、天璋院篤姫が終生処女だったかもしれず(当時の女性としては悲劇)、島津斉彬の幕政への参画や大奥との確執、側室の妨害なんかの変数を将軍家と幕末の方程式に算入すると、(今の価値基準に参照すれば)解は不幸。四面楚歌の篤姫は徳川家定と画面で見受けられるような仲睦まじい夫婦であったかどうか、「おわ(あ)たり」がどれほどあったのか(数えるほどではと)なんて慮る。側室をあんまり全面に出すのも憚れる。じゃぁ、なんであんなにも徳川家のために奔走したのかというギモンが。そういった現代の価値基準を括弧に括って、論理だけで割り切れない、置換すれば、「画面に映らない」部分を自分で調べていくところに大河ドラマの虚像に対する好奇心がわいてくる。
それにしても、今回の配役を構想した人に拍手。いやぁ高橋英樹(島津斉彬役)が時代劇に必須と再認識。というのも、宮崎あおいや瑛太をはじめとする若い俳優が発話する「声」を聞いていると、どこか「ためらい」があるのかなぁと思う。自分たちが使わない言葉を発話する声が自分の耳に届く。それを確認しながら演じると、日常の自分と演技の自分に、普段の俳優以上の差異を身体が感じとってしまうからと考えてみたり。
ところが島津斉彬はもう成りきっているというか、外連味のない芸に達しているような印象。まるで日常生活のときからそんな言葉遣いをしているかのようで。違和感を自分のなかで抱いていない。「自分」と「自分」の間にズレがない、と勝手に私は楽しんでいる。
そのなかでやっぱり堺雅人が秀でている、ずば抜けていると勝手に唸って勝手に喜んでいる。だって大ファンなので(笑)
いや、ホント、強烈だよ、あの暗愚か賢君かの演じ方は。ときおり現代風なコミカルなふるまいをまじえて楽しませたり。
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[Review]: 死刑弁護人
- 2008-07-02 (Wed)
- Review
来年、裁判員制度の運用がはじまる。先日、朝生でこのテーマを扱っていた。賛成側と反対側、それぞれに言い分がある。二項対立はテレビの意図だから折り合いをつけるような議論に向かわない。素人の私にはかえってよかった。成立までの背景と制度の概要、賛成側と反対側が俎上に載せる論点も理解できた。共通点もあった。それは、「司法の危機」らしい。法曹界に棲む人々はそうそうな危機感を抱いているようだ(ポジショントークもあると思うけど)。表現は違えど同書の著者安田好弘弁護士は「この国の司法はどこに向かっているのか」と舌鋒鋭く論ず。「司法の劣化」とも。
いろんな事件の裁判にかかわって、はっきりと感じることがある。
なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが「弱い人」たちなのである。
他方「強い人」たちは、その可能性が圧倒的に低くなる。
私のいう「強い人」とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。
そして「弱い人」とは、その正反対の人、である。『死刑弁護人 生きるという権利』 P.3
「弱い人」が犯した罪のうち、同書に登場する事件は以下。
- 光市母子殺害事件(差し戻し控訴審の判決前まで)
- 新宿西口バス放火事件
- 山梨幼児誘拐殺人事件 (一審死刑、二審無期懲役)
- 名古屋女子大生誘拐殺人事件 (一審、二審、三審死刑 1995年12月死刑執行)
- 宮代事件 (加害者の兄弟にそれぞれ死刑と無期懲役 1998年最高裁で刑が確定)
- 北海道庁爆破事件
- 北海道連続婦女暴行事件 (1972年5月に事件が発生、 1990年9月に上告棄却により死刑確定 2004年6月4日札幌拘置所内にして病死)
- ダッカ日航機ハイジャック事件
- 山岳ベース事件
- オウム真理教事件
法曹界に多くの支持者を持つ反面、テレビからは蛇蝎の如く嫌われる。テレビの思惑が那辺にあるか知らない。一読したとき、「あたりまえだ。だけどやっぱりあたりまえだと納得できない」感情がふつふつと。胸中穏やかならず。罪を犯した人が弁護を受ける権利。刑事弁護人の使命。あたりまえのことだとわかっている(つもり)。私は本村洋さんのように論理的に反駁を加えられない。ひたすら情動のおもむくまま。テレビも同じかなぁ。同書に登場しない名古屋アベック殺人事件とYouTubeのインタビュー。
安田弁護士の弁護は想像を絶する量と時間。どうやったら膨大な量をこなせるのか、ほんとうに寝ているのと目を疑いたくなるほど。弁護士の職責を果たそうする、あるいは先生の信念にもとづいた行動に尊崇の念を抱く。だけど尊崇と書けば書くほど胡散臭いと自己嫌悪するのは、頭でわかっても身体が拒否するからだろう。インタビューに登場する宮台真司先生や安田弁護士も含め、ひとつの事件を「審問」するとき、ひとつの上の次数に視座をあげ全体を鳥瞰しなければならないのだと思う。そこは感情が排除された世界か。100%排除できなくてもできるかぎり。そうでなければ審問は私的制裁になりかねない。
裁判を私刑にしない原則は
- 無罪推定の原則
- 検察官の全面的な立証責任負担の原則
- 直接主義、口頭主義、公開主義の原則
であって、これが公平・公正な刑事裁判を支えてきた。 だけど、それがオウム事件をきっかけに放擲されてしまった。そうだと思う。森達也が指摘するようにオウム事件以降、三権分立どころか三権がそろい踏みで厳罰へと舵を切った。そして、光市母子殺害事件が起きた現在、過去の事件をググると「どうして死刑判決じゃないの」と首をかしげる(死刑廃止と存置の問題は別、念為)。すべて「今、起きたこと」から振りかえる。「今、起きたこと」を括弧に括るのはむずかしい。むずかしいから悟性よりも情意を前景化させる。賛同を得やすい。
いま、そんな過渡期なのかもしれない。中庸は目に見えない。目に見えやすい両極へと振り子を振るとわかりやすい。支持も集まる。私はまだまだ情動で判断している。それではだめだと論理に傾こうとする。その狭間を往来している。読了後、無性に胸がかわいた。
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[Review]: 演劇入門
- 2008-07-01 (Tue)
- Review
演技と演出の違いを知らない。そんな浅学も演出家の仕事を読んで感銘を受けた。だけど肌で感じるような理解に至っていない。なのに平気で「演出」と口にする。これは変わらない。「演劇は誰でもそこに参加できる表現形態」であり「戯曲というものは誰もが書けるもの」だと同書は言う。ただし趣味に興ずるならばだろう。そうはいっても趣味に興ずるほど演劇は近いか。誰でもそこに参加でき、誰でも戯曲を書けるほどなのか。なぜ演劇は少なからず「離れて」いるのだろう。そのヒントは平田オリザ先生が指摘する「演劇の技術」にあるのかな。「演劇が技術ってナニ?!」って感じだ。技術なら伝えられるのか。
演劇の技術とは、「自分の妄想を他者に伝える」技術である。それが技術として確かなものであるならば、それは、ある程度の部分まで言語化できるはずなのだ。本書でまず初めに試みたいのは、これまで言語化されることが少なかった演劇の技術、劇作の技術を、できるだけ解りやすい言葉で書き記すことである。『演劇入門 (講談社現代新書)』 P.5
これまで言語化されることが少なかった演劇の技術、劇作の技術と断ずるのに驚いた。Wikipediaに助け船を出す。そうなんだ、得心。人が棲む「位置」を思い浮かべる。第一線の人から無名の戦士まで、誰もが世に棲む分野に「位置」を持つ(と私は思う)。位置は自分が定めても、たいてい他者が評価する。その位置のズレに一喜一憂。そう思うと、平田オリザ先生の「演劇の技術」を演劇界の標準値だと誤解してはならない。
リアルな台詞とは何か?
これは、相当に難しい問いかけだ。だが確かに、リアルでない台詞、説明的な台詞、もっと簡単に言ってしまえば「ダメな台詞」というものがある。『演劇入門 (講談社現代新書)』 P.12
舞台は美術館。主人公がいきなり入ってきて、いきなり、「あぁ、美術館はいいなぁ」と台詞をしゃべる。一見、極端な事例だと思った。そうでもないらしい。案外、この手の「ダメな台詞」は多い。物語を無造作に切り取ってしまう台詞。観客の想像力を奪う台詞。ドキリ。実生活でもそんな台詞をはいているかも。同書が問うとおり、「演劇のリアル」と「現実のリアル」は位相が異なる。現実の私が彼女と美術館に訪れて、「あぁ、美術館はいいなぁ」と口にしても周りの想像力を奪わない。微妙な空気が二人の間をほんのりと漂うだけ。他方、演劇で私が同じ台詞を口にしたらそこで終わる。ただし、同じ台詞をもう少し後、すなわち「遠いイメージ」から入ってだんだん「近づいた」ときに発話すれば、観客は「確かに」とシンクロする。言葉の不思議。コンテクストの魔力。
「あぁ、美術館はいいなぁ」の台詞をダメにしてしまうのは「リアル」の喪失。それは、「現実のリアル」と「演劇のリアル」の位相を重ね合わせる点を見いだそうとしない対話の欠如。位相を重ねるあわせるために先生は三つの問題を提起した。
- 現実世界の「リアル」と、演劇世界のリアルは、一見違うもののように思える。それはどうしてか?
- 演劇世界の「リアル」とは何だろう? また、それがあるとすれば、演劇の「リアル」は、どのように獲得されるものだろうか?
- なぜ、人は、「リアル」な演劇、「リアル」な台詞が書けないのだろう? 人間を「リアル」から遠ざけるものは何だろう?
他者とのコンテクストの摺り合わせが課題。演劇では「観るー観られる」の関係性に固定される。現実世界は「観るー観られる」の関係性が固定されていない。と、私が思っているにすぎない。現実世界だからという理由ですべてを無前提に受け入れているのではなく、無意識に世界の文脈を瞬息の間に捉え直し続けているだけだ。現実世界の「あぁ、美術館はいいなぁ」には時間と空間と発話のコンテクストが無数に存在する。その存在を他者とキャッチボールしている。演劇世界の「あぁ、美術館はいいなぁ」は、限定されたコミュニケーションに存在する。限定と非限定の差異が二つの「リアル」を引き離す。
演劇世界では、表現者と鑑賞者の間には、現実世界で行われるような、発語行為を伴う対話は成立しない。だとすれば、表現者と鑑賞者の間での、コンテクストの摺り合わせは不可能だということになってしまう。『演劇入門 (講談社現代新書) P.190
不可能を可能する「内的対話」。同書が打ち立てた仮説。「内的対話」は言葉なき無限の反復。現実世界は混沌に満ちている。それを演劇世界が解りやすく省略した図式で描こうとすれば内的対話は失敗する。演劇が求められているのは二つ。ひとつは、混沌を混沌のまま受け入れること。もうひとつは内的対話によって混沌の解像度を上げる作業。あとは観客がそれぞれの知性と照合して他者や外界との交点を探っていくだろう。
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大阪は左、滋賀は右
- 2008-06-30 (Mon)
- Article
旅なら気にならないし、東京の人(のフリをしている人)から嘲笑されたらされたで土産のひとつもできたと喜ばしい。だけど、住むとなると話は別。
それにしても、関西弁が柄が悪い、というイメージはどこから来たのだろうか。おそらく、テレビのせいだろう。吉本の芸人はかなり無茶な突っ込みをするし、強引に笑いを取る。だが、吉本の芸人が使っている言葉をそのまましゃべっている関西人はほとんどいない。あれはいわば「吉本弁」なのだ。「吉本弁」は大阪南部の言葉がベースにはなっているが、それと全く同じではない。だいたい、ああいう下町言葉を「下品」だと言うのであれば、我々も「てやんでえ」だの「あったりめえよ」という言葉にはかなり違和感がある、と言わざるを得ないのだが。
[...]だいたい、「関西」と「大阪」の区別がついていないことも勘弁してほしいものだ。我々は、自ら「ダサイタマ」ではなく「東京」と呼ばれたがる卑屈な埼玉人ではない。京都・大阪・神戸・奈良という関西の四大文化圏は、関東における東京・横浜・千葉・埼玉よりもよほど個性が強く、言葉一つとっても一緒くたにできる要素など全くない。それとも、東京人は自分たちの身内も「ダサイタマ」などといって馬鹿にしているくらいだから、よそ者などもっと馬鹿にしても当然だとでも思っているのだろうか。
「吉本弁」とは言い得て妙。さんまさんや紳助さんが全国ネットで関西弁を話すようになって吉本芸人は免罪符を手にした。以来、関西弁をキャラ立ちさせてきた。だけど、テレビの関西弁は衒いがある。関西弁+中途半端な標準語的トーク。私の里は瓢箪山。大人たちは河内弁を使っていた。特に瓢箪山から出ない大人たちは顕著。祭りの会合なんかで飛び交う言葉は下品。なぜ下品と思えるかというと、高校の入学式でショックを受けたから。瓢箪山から近鉄奈良線に乗車して30分ほどで上本町がある。そこで下車して高校に通っていた。大阪の外れから市内へ。大人であればわずかな距離。16歳には異国の地。同じ大阪なのに発音や単語の言い回しがわずかに異なっていた。わずかな差異がかなりショック。同じ大阪人なのに違う言葉、って感じかな。で、上本町や市内に住む人たちの大阪弁はキレイだった。キレイといっても、米朝さんが話すような上方落語の美しさじゃないけど。
瓢箪山と上本町の差異に驚いた青年は大人になって滋賀県に住み、今は大阪・神戸・京都を仕事で往来している。奈良は知らない。大阪・神戸・京都、それぞれが違う。エスカレーターですら違う。大阪は左側が空く、京都は微妙、滋賀は右側が空く。いわんや言葉をや。滋賀の言葉に大阪弁のようなイントネーションはない。歌手の「ゆず」を「ゆず」と発音すれば、「ああ、すぐ大阪の人やね」とわかる(文章にしたらわかるわけねぇや)。滋賀は前者の「ゆず」、大阪は後者の「ゆず」。京都は別世界。京都の商売人と話せば、京都をチラッと垣間見られる。千年王城とはよくいったもんだと体感。大阪弁とは異なるイントネーションな言い回し。大阪弁より少しゆったりした感じ。滋賀でも地域によって違う。なつかしい響きで話す地域もある。その響きはだいたい県の中心からはずれている。かつ、世代的には年配の方がおおい。大阪、京都、滋賀、たぶん、「世代」という影響は大きいと思う。
で、ATOKも違う。神戸、大阪、京都、奈良は一発変換できるけど、滋賀県は滋賀と入力しても一発変換されず、必ず滋賀県と入力しないと一発変換されない。屈辱。
つらつらと書いてたけど、何が言いたいかというと、東京のみならず、日本が世界を眺めるとき、「フランス人はシャワーを浴びない(から不潔)」とか「欧米人は歯並びがいい」などの景色を堪能する。ハリウッドスマイルに刷り込まれ、ナポレオンの臭いフェチに感化されたり。反対もしかり。ラストサムライを観たとき、椅子から転げ落ちそうな衝撃を受けた人も少なくないはず。あれを持ってして、「もっとひどかった。我々が現場の人たちと話し合いながら改善した」なんて真田さんの口から聞くと、「改善させる前の映画のほうが映画らしくていいだろう」とツッコんだり。微妙に正確な描写はやっかいなイメージを与えかねないわけで。
旅をするとき、旅行ガイドを片手に散策すれば効率的に移動できる。それはそれで便利。否定しちゃいけない。だけど、旅行ガイドを手にしたことによって、「関西弁は柄が悪い、下品だ」「大阪は民度が低い」と握手するハメになることも自覚しておこう。旅行ガイドは私の想像力をかんたんに奪い去る。あざやかな手さばきで。見わたすかぎり私の知らない景色。そのとき、ガイドを手にしたくなる。京都へ何度も通う人がガイドなしに遊べるようになっても住人ではない。反対に京都も千年王城のあぐらをかいていれば、再び不遇の時代をむかえる(修学旅行の学生しか見かけない時期があったようにお見受けする)。
滋賀県が滋賀と入力しても一発変換されないことを羨んでもしょうがない。滋賀(クソッ、いいかげん腹立ってきたので単語登録してやる)は神戸・大阪・京都・奈良へ羨望の眼差しをおくってもしょうがないto
国粋主義と地域主義はコインの表と裏。いずれも先鋭化してしまえば滑稽な話。
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[Review]: 幽霊人命救助隊
- 2008-06-19 (Thu)
- Review
2007年度の自殺者は33,093人で10年連続30,000人を超えた。03年度の34,427人に次ぐ多さ。年代別では60歳以上の高齢者が8.9%(12,107人)と最も多く、次に30代が6.0%(4,767人)。両世代は統計をとりはじめた1978年度以降で最多の人数(参照: 自殺者:10年連続で3万人台 高齢者と30歳代増加 - 毎日jp)。1日に90人が自殺する。日本の文化と自殺の関係を報じる海外や先進国のなかで突出した自殺者数である点などについて議論が展開されている(参照: 日本の自殺 -Wikipedia)。わたしはよくわからない。今年に入って急増している硫化水素による自殺とかを耳目すると連鎖も否めないと思う。ただ、手段は何にせよ自殺したいという目的を持つ人がいる点に着目するとわからなくなる。
人が生きていることには意味も目的もないのではないか。人はただこの世に居るだけではないか。そう考えたほうが気が楽だ。そもそも命の意味とか目的とかを言い出したら、それに当てはまらない人間は生きるに値しないことになってしまう。『幽霊人命救助隊』P.446
幽霊が自殺しようとする人を助ける。幽霊は4人。浪人生の裕一、老ヤクザ、気弱な中年男、アンニュイな若い女。4人は自殺して幽霊になった。なぜ幽霊が地上に戻って人を助けるのって思って読み始めた。
奇想天外なプロットとほんのちょっぴり気の利いたユーモアで、自殺に向きあおうとする。冗長な感もある物語も、3万人の自殺者の背景を十把一絡げにしようとしなければしょうがないかなぁと思う。
- 自殺者の揺れ動く心情
- 自殺しようとするきっかけ
- 自殺する人の思い込み
- 自殺する人の鬱
- 自殺する人と周囲の誤解
約600頁に及ぶ物語も、自殺を考えるには絶対足りないよ言いたげなほど、「自殺」に向きあう。なんていうのかな、理想論をふりかざすのじゃなく、「現実」っていうのか、「自殺」した人が自分の自殺を語るシーンは突き刺さった。幽霊人命救助隊のひとりアンニュイな若い女が語る。
「それでビルの屋上から飛び降りたの。ちょうどここくらいの高さから」と言って、美晴は十階下の路上を見下ろした。「でもね、やめときゃよかったって、すぐに思ったわ」
「空中を飛んでる最中に?」美晴はうなずいた。死を目前にした取り返しのつかない後悔を想像して、裕一の身の毛がよだった。自分が全体重をロープにかけた瞬間と同じではないか。
「もっと美味しいものを食べておけばよかったとか、遊びまくるべきだったとか、短い時間にいろいろ考えたわ。でも体は落ち続けた。もう助からないと思ったら、今度は生まれてからの出来事が全部見えた。迫ってくる時地面もね。で、激突。グシャって」
その先は聞きたくなかったが美晴は続けた。『幽霊人命救助隊』 P.374
私も聞きたくなかった。だけどすぐ隣の行に裕一が聞いた美晴の言葉が続いた。グシャの情景。目をそむけた。裕一と同じように絶句した。美晴が語った飛び降りている最中の心理や飛び降りたあとの人体について、「心理学」や「医学」の見地から適切かどうかを検証することもでできるはず。だけどそういった知識を持ち合わせていない私には、ひたすら生々しかった。
1986年4月8日、ひとりの女性が飛び降り自殺した。アイドルだった彼女は芸能界への頂点へと一気に駆け上がっていくところだった。そんな矢先の自殺。その自殺が与えた衝撃は若者へ。若者たちはあとへ続いて自殺した。この連鎖反応も本書に登場する。実名こそ出てこないけどほぼ同じ設定で。
政府が認めるように有効な手段をなかなか打てない。不景気に連動している(失業率)という指摘もあれば、鬱病が原因という識者もいる。なんとか食い止めようと医学や科学は欧米の研究を援用してサポートする。私はほんとうにわからないけど、できるだけ形而上へと昇華させずに、こういった小説からゆっくりコミットメントしていきたいと感じた一冊。
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[Review]: 安楽病棟
- 2008-06-16 (Mon)
- Review
“ケア”という響きに強さと脆さを感じる。「ケアすることで自分がケアされる」強さと「非対称の力関係」の脆さ。理学療法士(PT)の三好春樹さんは、「「介護」現場の目標は「臨床」ではなく「離床」にあるのだ」という(『共生から』P.76)。離床の意味は文字どおりかな。安楽病棟の人たちに離床はもらされたりするんだろうか。ケアを囲む離床の有無。私は「介護」を知らない。介護とケアの関係も知らない。安楽病棟にいる看護師はケアと口にする。介護という集合に含まれる要素のケアなのか、はたまた二つの独立集合が交わっているのか。読みながらつらつら思う。
タグ: dialogue, health, issue, life, medical, philosophy, republic, Review一期一会、お招きした客人。主任さんが言ったその言葉は今でも耳に残っています。考えてみれば実にその通りです。旅先で人と巡り会ったり、あるいは仕事上で人と出会ったりするのと同じように、わたしたちは病棟で患者さんと出会うのです。まさしく一期一会に他なりません。それも頭ごなしに扱う患者さんではなく、招待する客人として接するのです。患者と思ってしまうと、もうそれ以上の何者でもない単色の人間になってしまいます。人であれば、色でたとえるなら赤黄青黒白という風に、ありとあらゆる色合いがあってしかるべきです。『安楽病棟』 P.460
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終身刑は判決じゃなく刑の運用では?
- 2008-05-03 (Sat)
- Article
政治家は機会をうかがっている。裁判所も同じかなと穿ったり。光市母子殺害事件の上告審で主任弁護を担当した安田好弘氏に罰金50万円(求刑懲役2年)の逆転有罪を言い渡した(参照:NIKKEI NET: 安田弁護士に逆転有罪で罰金刑・東京高裁)。4月23日。光市母子殺害事件の差し戻し控訴審判決の次の日。逆転有罪かつ異例の罰金刑。そして今度は「終身刑」が出てきた。首をかしげる。
現行法では、死刑に次ぐ重い刑は無期懲役。しかし、法務省によると、平均25年程度で仮釈放されており、死刑より軽く無期懲役よりは重い刑として、終身刑の創設を求める声が少なくなかった。
平沢議員は議連の意義について「死刑廃止論とは相いれないが、終身刑の創設の部分では一致している。平行線の存廃論議と切り離し、裁判員制度で市民が悩むことになる前に解決しなければいけない」と強調する。参加予定者の中には、山口県光市で起きた母子殺害事件の死刑判決をめぐり、「終身刑の必要性を考えるきっかけになった」と話す議員もいるという。
私のような市井の徒がいずれ司法に参加しなければならない。今の私は罰金を支払うつもりだけど。法律をまったく知らない。にもかかわらず、ちょっと本を調べれば、終身刑は「判決」ではなく「刑の運用」の問題を含むと理解できる。たとえば、現在でも「非転向」の政治犯は仮釈放を与えられにくい。日本赤軍がらみとか。なのに政治家は「判決」の問題として俎上に載せようとしている。政治家と司法は判決と刑の運用の峻別を丁寧に説明すること、それが求められているのでは?
以前、芸人やタレントがコメンテーターをしているテレビ番組で「終身刑にしたらええやん」みたいなコメントをしていた。感情を顕に正しいことを主張していると言わんばかりの顔で。そのコメントに対して、八代英輝氏が「判決と刑の運用の問題」をわかりやすく解説した。コメンテーターは沈黙。
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クレームと潜水艦
- 2008-03-21 (Fri)
- Diary
午前中、クライアントとウェブサイトの打ち合わせ。その最中、関連企業のクレーム対応力に嘆いておられた。対応力がなきに等しいと喉から出かけている。要はクレームに対応する「判断」を備えていない。判断できない状態。もしくは「判断」を知らない。
私は話を聞き相づちを打ちつつ、頭のなかで「潜水艦」を思い浮かべた。潜水艦、とりわけ原子力潜水艦 はサイレントサービスの別称をもつように、秘匿性の高い運用と行動で知られる。その艦長は「世界で最も力のある3人」と指摘する映画のセリフもある(合衆国大統領、ロシア大領、そして戦略核を搭載した合衆国原子力潜水艦の艦長)。
潜水艦の内部は、映画や小説の描写のとおり、いくつも区画から構成される。区画と区画を連結する扉がハッチ。(技術的説明をすっとばすと)家のなかにいくつも部屋があるといったイメージ。部屋は扉で仕切られ、開閉できる。
なぜハッチで区切られるのか? もし艦内がひとつの空間だとしたら?
言うまでもなく致命的。敵対する潜水艦から攻撃を受けたとき、潜水艦内に浸水すれば、あっというまに艦は沈む。だからハッチで区画する。ある区画に浸水しても、そのハッチを閉じれば、浸水はそこで終わる。
ある区画に魚雷が被弾
その区画には戦闘員が3人配置。見えない敵から発射された魚雷が被弾、浸水。艦長の判断やいかに。映画や小説の風景。このままいけば艦が沈没する。全力の救助活動、それがかなわぬ場合、ハッチを閉じる。それが艦長の「判断」かと。
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Bill Gatesが語る3つの施策
- 2008-03-14 (Fri)
- Article
1,100人のエグゼクティブが集ったbreakfast。そこでBill GatesとCraig Mundieがスピーチした内容に本邦との位相の違いを痛感。Craig Mundieはマイクロソフトの最高研究戦略責任者。彼が質疑応答で語った連邦議会への苦言?!
Members of representative democracy are supposed to know how to balance those competing goals, but Congress’s decisions are “too skewed to the short term right now,” Mundie said.
「矛盾する目的」のバランスをとる方法を議会制民主主義のメンバーなら知ってるはずと前置きしつつ、今の議会は「短期の目的に偏りすぎ」と指摘してる。世論調査とのにらめっこせざるを得ず、シリコンバレーの主張を政策に組み込んでもらうのにご苦労されている様子。
ここまでは日本も同じ。財政緊縮と格差是正の両立とか。目も当てられないけど。
じゃぁ、「短期の目的」じゃなく「長期の目的」はというと、Bill Gatesが連邦議会で提言したと。3つの施策。
Gates was on Capitol Hill Wednesday morning speaking to a House of Representatives committee about the need for three major areas of action: increasing the number of H-1B temporary visas and green-card permanent visas that are allotted to high-tech workers; increasing investments in federal research programs; and focusing on ways to improve the educational system, particularly in the math and science fields.
Bill Gatesが演説した3つの施策
- ハイテクエンジニアへ発行するビザやグリーンカード枠の増大
- federal research programsへの投資の増額
- 教育、とりわけ”数学”と”科学”のシステムを改善
なんだか「目線」が違うというか。日本がこの3つに取り組む姿勢がないというわけじゃない(1.は論点が別だけど)。ただ、最近の「上げておいて落とす」ような報道や批判の矛先を眺めると、「成長」をどこに置き忘れたかのような印象。
「成長」といっても高度経済成長期のような奇跡じゃなくて、sustainable noninflationary growth(インフレなきはちょっとね…..)を構築できる「長期の目的」がもっと語られないかと傍観。
まぁ、ねじれている間に今までのウミを全部出しちゃえよと思うけど。
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