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[Review]: ひとつ上のプレゼン

ひとつ上のプレゼン。

私はプレゼンとういものは伝達が難しい抽象知を、わかりやすい具象知に変えてみせる、一種の「知の錬金術」ではないかと考える。
この「知の錬金術」を自在にあやつり、プレゼンが終わると同時にクライアントがハタと膝を打って、感涙のうちに採用決定になる。
これが私の理想のプレゼンだが、なかなか実現は難しい。

“ひとつ上のプレゼン。”眞木 準 P.13

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[Review]: 狂気という隣人

狂気という隣人―精神科医の現場報告 (新潮文庫)

先日、名古屋地裁である事件の論告求刑公判が開かれた(参照)。2005年2月、犯人は生後11ヶ月の男の子の頭部にナイフを突き刺し殺害した。男の子は頭部にナイフが突き刺さったまま夥しい血を流しており、母親が抱きかかえて絶叫していたという。検察側は「あまりに凄惨。誰もが計り知れない恐怖を覚えた」と指摘しつつ、「無期懲役が相当だが、被告は当時、心神耗弱だった。遺族の被害感情を考えると断腸の思い」として有期刑で最長の懲役30年を求刑した。

私たちの周囲には数多くのスキゾフレニック・キラー(統合失調症の殺人者)が存在しています。彼らの多くは検挙されても不起訴になり、裁判で事実が明らかにされることもなく、精神病に入院した後何年かすると再び社会の中に戻ってきているのです。

『狂気という隣人―精神科医の現場報告』 岩波 明 P.106

統合失調症の発症率は人口1%。これは全世界で変わらない。スキゾフレニックと呼称される予備軍はその数十倍ともいわれる。本書の物語は「向こう側」の出来事ではない。登場人物はみな”隣人”である。なのに実感がともなわない。いやそれどころか、私が「彼ら」になるとはつゆほども疑っていない。

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[Review]: そして殺人者は野に放たれる

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)

昨今、凶悪事件が増加していると耳にする。それが事実なのかどうかわからない。むかしから凶悪犯は存在する。それが”マス”と相乗してクローズアップされているかもしれない。もし凶悪犯たちが私たちの「範疇」を越えたとき、野に放たれる(可能性が高まる)。昨年、私が住む滋賀県でふたりの園児が惨殺された(個人的には刺殺ではなく惨殺と受け止めている)。事件の概要は 滋賀県長浜市園児殺害事件 を参照していただくとして、容疑者はその後起訴され裁判中。「心神耗弱」を争っている。事件当初の衝撃にくらべ全国報道の時間が極端に減った。ゆえに地元新聞やメディアをとおして事態の推移を私は見守っている。

凶悪犯罪が、一〇〇%の理性によってなされるという発想も、一〇〇%の異常性によってなされるという発想も、私は間違っていると思う。しかし、こんなあたりまえのことが、専門家たちには承服できない。だから未だ日本には、凶悪犯罪者を心神喪失により無罪にする法(刑法三九条一項)はあっても、心神喪失により不起訴あるいは無罪にした凶悪犯罪者を処遇する施設が一つもない。

『そして殺人者は野に放たれる』 日垣 隆 P.67

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歪み醜く狂う

私と周りのバランスを大切にする。そのために「正しいバランス」を求める。でも正しくなければ釣り合わないのか。世情に通じずいびつな我であっても実はそれで釣り合っていることもある。

世に対しすすんで背をむけるでもなく、勇ましく飛び込むでもない。ただ控え目に醜く生きたい。でも受けるがままの首輪を拒否する。

まずは己が一歩踏み出さなければ何もはじまらないし何も終わらない。

「できるからやる」は「できないことはやらない」と同義。「やらなければできない」と選択する意志でありたい。その先に何があるかわからない。わからないと思い込む自分に陶酔する。それを私は忌み嫌う。わからないことをわかろうとする欲と凜がつり合うための糧となる。

バランスとは正しくつり合うことではなく、極度のゆがみから生じる唯一の居場所。偶然に誕生し偶然に生き延び偶然に死ぬ。それが必然。

多くの者がつり合う方法を知りたがり訊く。しかし、「なぜその方法なのか?」と意味を問う者は少ない。

バランスを大切にするから一日一日を狂う。

[Review]: 生きて死ぬ私

生きて死ぬ私 (ちくま文庫)

今まさに時間が流れているということ、そして、そのような流れる時間の中に私たち人間が存在しているということ、そして、そのような時間の流れの中で、私たちがさまざまなことを経験し、考え、意思決定しているということ。このようなことを思うと、私たちの存在の不可思議は、時間の流れの不可思議と深く関係しているということがわかる。私たちの生も死も、時間という舞台の上で演じられるドラマである。人間存在を理解するためには、時間を理解しなければならない。 生きて死ぬ私 P.57

出版当時33歳。羨ましい、33歳にしてこんなテキストを書けるのかとため息をついた。歳は関係ないのだろう。感じることができる人は感じ、表現できる。感性をまとっているかどうかだけ。

「今」と「少し前」—–両方<私>であっても、その差異を認識できるのはなぜか?「時間」と「記憶」は深くかかわる。

しかし、33歳の茂木先生がふれていないことがひとつある。

「記憶」を失った人に魂は存在するのか?

人の心から情感が抜けていき記憶が失われつつあるとき、「人が壊れた」というのだろうか。その時、「あの人には命がなくなった」と判断できるのは、私かあなたか。

「人間存在を理解するためには、時間を理解しなければならない」としたら、気の遠くなるようなもがきを経て、「時間を共有できる喜び」が我が身にやってくるのかもしれない。一瞬を「共有」できたかどうかを私には確認できない。ただ信じるのみ。